芸術は作者の生と無縁か
無縁
「Ars longa, vita brevis(芸術は長く人生は短し)」とは坂本の座右銘だが、芸術が作者の生と無縁であるがゆえに、死は「屈折したものとして、つまりアレゴリーとして」作品にあらわれるのだとアドルノは『ベートーヴェン』で指摘する。むろんそのような屈折を作品に織り込む境地にいたる作家はごく限られている。
無縁でない
作者の実生活との結びつき
―デコさんは昨年の一時期、音楽をやめようと思ったそうなんですね。目標を達成してしまって、次に何をしていいかわからなくなってしまった。最終的には音楽へのモチベーションを取り戻して、それでこの『Conti New』という作品が生まれたわけなんですけど、谷川さんもそういう一時的に燃え尽きてしまった時期があったりしましたか?
谷川:途中で嫌になったことは何度もありますよ。でも、やめようと思ったことはないですね。そもそも書くこととお金を稼ぐことが結びついちゃっているから、書き続けないと生活が成り立たなかったんですよ。だからあとで振り返ると、「この頃の作品は良くないな」っていうのもあって、当時の自分は意識してなかったんですけど、実際はスランプだったんでしょうね。
―それでも、書き続けることが大事だったと。
谷川:だって、お金が要るもん(笑)。それを無視することはできませんよね。アーティストの中にはお金の話をしたがらない人もいますけど、実お金は創作に絡まっちゃってるし、その影響はすごいと思うのね。例えば今、出版界は本が売れなくなってるから、本以外のメディアで読者に届ける方法はないだろうかって考えるし、本を作ったら、サイン会とかスピーチとか、何かパブリシティをやる必要も出てきていたりするわけ。一昔前までは景気も良かったから、そんなに悩まなくても済んでたと思うの。
―読者リスナーに作品を買ってもらうために、作品を作る以上のことをする必要が出てきているわけですね。
谷川:そうだね。でも詩っていうものは作者と読者の間にあって初めて成立するものだから、読者がいなかったら、ただの独りよがりになっちゃいますよね。だから僕は、自分と他者との関係っていうのをずっと考えてきました。例えば会社員だったら、会社で他の人と結びつくし、大学の先生だったら生徒と結びつくわけでしょ? でも物書きっていうのは、それを読んでくれる人以外とは結びつきようがないんですよ。
DECO*27:ニコニコ動画でも、やっぱり再生されないと、聴いてもらわないと意味がないから、例えば動画を公開する日をいつにするとか、人が家にいる時間を考えたりとかする必要があって、僕はそれを面白いと思ってやってきたところはありますね。
―やっぱり他者とどうつながるかっていうのが、創作のモチベーションになってるわけですよね。
谷川:僕の場合はそうですね。全然読者は要らないっていう詩人もいるんですよ。読者が1人もいなくてもいいから、好きなように書く。それもひとつの態度だと思うけど、そういう人は大体別に生業を持ってるわけ。だから、そういうことが言えるんだよね。
作者自体が制作によって変化するという立場
制作とは、つくることによってつくられていくインター・アクションである。それは子どもの誕生が「親」を産みだすように、作品をつくることが「作者」を産みだすといった結果論ばかりではない。制作というプロセスのなかで、制作物の変容とともに、制作者が変容していくということだ。いわば制作者は、制作まえと制作あとで、同一人物ではいられないのである。これが制作の醍醐味である。作者は自らの作品に驚きながら制作していく。それが何を表現しているのか、自分が何をしたのかといった意味づけは、つねに遅れてやってくる。生理学者ベンジャミン・リベットが証明した、行為の意図は行為に0.5秒遅れて自覚されるという原則(※3)がここにもある。ところで、レヴィ=ストロースが述べた「音楽は音楽以外のなにものも模倣しない」という構造については、すでに美術家・棟方志功が「わたしは花の絵ではなく、絵の花を描くのだ」(※4)と言い表している。表象(花の絵)ではなく、それ自体(絵の花)としての絵画。それはすでに、何かを表現するための手段ではない。
そもそもアートの原義である技術というのは、ヒトが他なるものや非人間的なものと接触するインターフェースに生じてきたものである。それはすでに述べたように、ヒトの管理下にはなく、ヒトとそれとの協働なのだ。藝能がサトとヤマとの境域、または共同体と外部との境界で育まれてきたことも、このことと入れ子構造をなしている。そして、こうした始源性と呼ぶべきものは、個々の制作者たちの制作プロセスにおいても明滅しているわけである。繰り返すが、制作者たちは制作をとおして自己変容していく。エンデいわく、「書くという冒険がわたしをどこに連れていくのか、わたし自身にさえわかりません。ですから、どの本を書いたあとも、わたし自身はちがう人間になりました。本を書くことがわたしを変えるからです」と。