自分が自分である実感
これ別に詐病を疑うとかじゃなくて本当に言葉通りの理解不足なんだけど、「自分が自分である実感」ってよくわからないのだよな。というのは、そもそも誰も他人にはなれないので、一般の人が十全に感じているだろうその感覚の参照点はどこなのだろう、という疑問。離人感を訴える人は、実際なんらかの普通じゃなさを感じているのだろう
大分わかる。独我論とまでいかなくてもそういう懐疑主義(←不正確)がずっと脳裏にあるし、そういうものに対して未だに割り切れない。 逆に言えば割り切りさえあれば全部解決する
しかし「割り切った」という確信を持てることなんて本当にあり得るのか?
私は本当に割り切れているのか、私は本当に割り切れているのかという疑問を立てること自体を割り切れているのか、みたいなメタ認知のループに嵌ってしまうのは避けられないし、一生もやもやし続けるしかないような気もする
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