曖昧なものを曖昧なまま
頭の中にある曖昧なものを曖昧なまま表現できることも、音楽というフォーマットの好きな部分です。
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曖昧を曖昧なまま受け取る覚悟を持つ
意味として捉えると理解不可能な構造の総体を何度も頭に刷り込んでいく過程で何にもパラフレーズされないまま内面化されていくみたいな経験がもっと必要かもしれない
油断するとすぐ「つまり……」とか「つまり?」とか言っちまいそうになるけどそれをグッと飲み込んでどろどろのまま身体に溜め込む覚悟のコミュニケーション
テクノとかハウスのDJイベント、限りなくソレに近い体験だと思います
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なにかを体験したとき大切なことは、すぐに言葉にしないこと。その体験をありきたりな既成の言葉、手持ちの言葉でもって凡庸化しないでおくこと。これは他者体験としての鑑賞体験においても同様で、かならず助言してきた。しかし鑑賞教育では言葉にさせるむきが強い。なにかを明晰化したつもりにさせる
すぐさま言葉にしないことで、イメージは変換を起こしていく。変換していきながら新たなイメージを生みだしていく。この過程に言葉がはさまると、類的なイメージに回収されてしまう。新たな体験がすでに見知っている体験のなかで解釈されてしまう。この凡庸化、その満足感はとてつもなくもったいない
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下手な言語化ってのは、しないほうが良いこともあると思うんですよね。言語には言語の都合があって、それは必ずしも人間の心の動きに沿うものばかりではない
言語はこう言ってるけど、お前はどうすんの?という距離感は大事
やっぱ言語化は悪だという気がしてきた
言語化さえしなければ自分の心の中のモヤモヤで済むのに、言語にして心の外に取り出した瞬間、それは無限に遠くまで届くようになり、無限に遠くの別の人のモヤモヤに当てはめられてしまう
それで気持ちがスッキリする人もいるのだろうが、善だとはどうも思えない
もちろんそれが「正しい」言語化であれば役に立つとも言えるだろうが、それについては上のような問題意識もあり、信用できないと考えているため、信用できない
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あいまいなものを抱えておく知恵も根性もない連中がとびつくコトバですね。
いしいひさいち『ののちゃん』4491話
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猪股剛「C・G・ユングの思想を振り返る」(『人文会ニュース No.149』) 「私の話す言葉は、二重の側面を持つ心の本質に対応しうるように、二義的で、場合によってはあいまいである必要があります。私はあいまいな表現を求めて、意図的かつ念入りに作業しています。なぜなら、その論述は一義的なものよりも優れていて、存在というものの本質に、よく対応しているからです。」(C. G. Jung, Erinnerungen, Träume, Gedanken von C. G. Jung, Walter Verlag, 1971, S.236.)
つまり、ユングは決してわかりやすくタイプを整理して表現することはなく、むしろ対立するものが混じり合うかのような論述を続けて、あいまいなものをあいまいなままに表現することに力を注いでいる。