ハイパーリンクドネットワーク
ワールドワイドウェブで使われるハイパーテキストとは、文書中に別の文書のURLへの参照を埋め込むことで(これをハイパーリンクと呼ぶ)インターネット上に散在する文書同士を相互に参照可能にするシステムである。 リンク構造 = 世界
リンクでどこにでも飛べるインターネット、一見広大な海みたいだけど
逆にリンクがないとどこにもいけないから実際は全部駅構内だけを見てるようなものなのかもしれない
↓文脈
TwitterのAPI制限があった07/02/23だった
Twitter不測の事態に備えて自前Discordサーバーを開放しようと思う一方、みんなが各々のサーバーで発信することでかえって不便にならないか心配
オープンなインターネットワールドは幻想……?
などのメッセージを見て
ハイパーリンク以後の創作スタイル
ハイパーリンクの発明によってあらゆる情報が並列に配置されるようになった、その時代以降の創作のスタイルというものがあると思う。
それまでは、例えば店頭だったり、書籍だったり、コミュニティだったり、情報の参照関係とその量的なまとまりには一定の物理的な制約が加わっていたけれど、インターネット以降は特定の情報を取り出して点で並べるということが可能になって、そうした体系的でない散り散りの要素を拾い集めてコラージュのように組み上げていくのがむしろ今の時代の創作作法のスタンダードのような気がしている(というか私がかなりそう)。
それまでは物理的な制約を逃れて何かを知ることは難しかったように思える。書店とか、大学とか、レコードショップとか、クラブやライブハウスとか、あるいは物知りな友人とか、そういった物理的な接触こそが知っていくための手段で、そしてそれらに触れることは強制的に(誰かがキュレーションした)なんらかの体系に入り込んでいくことでもあったと思う。
つまり、それまで何かを知るということは常に他の情報との隣接関係の中に入り込むことだったのに対して、ハイパーリンク以降の世界では情報が物理的な制約から開放されてそれ単体で存在し、動き回れるようになった。
逆に言えば、それまでは体系の中に入り込むことが何かを知るための唯一の手段だったのに対して、今はRTで流れてきた何かとか、アルゴリズムでレコメンドされた何かとか、リンクの下に格納された情報がどこからも参照されずインターネットを動き回っていて、それを直接捕まえることで体系に入りこまずに情報を摂取することができるようになったとも言えるかもしれない。だから、そのあたりの差が体系知に対する温度差にもなっているような予感がする。
例えば、星新一も小松左京も知らないけど筒井康隆は『残像に口紅を』がTikTokでバズったので知ってるし読んでる、みたいなことがよくある話になっていて、ここまで隣接情報を飛ばして何かにアクセスできる時代は今までなかった気がするし、体系に入りこまないことと大量のインプットをすることが両立するようになった。
インターネットには物理的な距離が存在せず、それによって引き起こされている課題はかなりあると思う。
物理的な距離が存在しないため移動という概念が存在せず、すべての情報はハイパーリンクによって同時にアクセスできるが、これが物理世界の流通ではあり得ない異常な速さを生んでいる。
欲しいものは近くに置いて、そうでないものは遠くでもいい、という物理世界のシンプルな原則が有効に噛み合っている場面は実はめちゃくちゃ多くて、しかしインターネット上ではすべての距離関係を0にすることができるので物理世界で成立していたこのシステムは基本機能しない。