デュレエ
https://www.youtube.com/watch?v=dpT-ZAPVvyI
この両手では受け止められない程、
意思が投げられてきた。
身体が伴っていたら、
おびただしい数の痣ができていた。
誰かがその心証に、
「公共的」と主語を貼り替えていた。
接続のイコンとして担がれ、
他方には分断の遺恨があった。
完全に0とか1で定まる、
絶対性は無かった。
お互い半々で認め合える様な、
寛容性が欲しかった。
この場にそんな余裕がない事など、
もう痛切に分かっていた。
その遺恨を除けて、底上げ、
ただ「好きだから」でここまで来た、
今日だ。
この両手では受け止めきれない程、
心臓を揺らしてきた。
その情景に魅せられてはまた、
ここに願いを託してきた。
誰かがこの構造を、
偽物だと簡単に省いていた。
それでもこの場を成したモノ全てを、
ただ本物だ、と思った。
完全に0とか1で定まる、
音素の集合だった。
それ故痛みを感じぬ事だけが、
不幸中の幸いだった。
こうやってフィクションに移入できる事が、
ぼくらの特権だった。
そういう人間の成せる業が、
虚構も現実にしてきた、
今日だ。
さながらシンデレラのストーリー、
ぼくらの記憶を繫ぐ輸送機、
上へ向かった力とProxy、
命を飛躍させるアプローチ、
リバース、作用と持続の体系、
言葉で規定できぬこの背景、
映画仕掛けや機械論では、
一枚たりとも引き裂けない、
ぼくらの方向性!
その両手では受け止められない程、
意志が乗せられてきた。
身体が伴っていたらきっと、
ただただ押しつぶされていた。
それは、大きく広がり開く、
ぼくらの試行の証明だった。
そういう数多の事実の線が、
ぼくらを今へ結んできた。
煌々と0から1へ重なる、
確かなモノがあった。
ぼくらの生活や思想、様相、
すべてが絶えず変わってきた。
こういうフィクションを、
紡いでくことがぼくらの人生だった。
そんな過去や今に、
未来を創り出そうとしていた、
今日だ。
ぼくは、物心が付いた時から初音ミクが存在したたぶん最初の世代で、音楽の原体験には当たり前にミクが在った。当時の印象は、「機械」でも「珍しい」でもなく、ただ純粋な「好き」でできていた。小学生のころ、ミクは一般層へ浸透する過渡期にあったようで、周りにも少しずつ存在が溶け込もうとしていたが、ここにはぼくと逆の人間も当然居た。人に嗜好があるのは当たり前だけれど、好き嫌いが言葉や仕草として向かうと、「嫌い」の方はより広く深い部分に残る。そういうものは未発達な精神を簡単にすり抜けてしまうから、気づけば昼の放送でミクの歌声が流れる度に知らないフリをして、中学ではミクで曲をつくったこともバレないように苦労した。こうして何年か経つと風向きが変わり、今度はミクやミクの影響下にある曲が断然「当たり前」になりかけていた。高校を卒業するころには「好き」と公に言える空気もあった。ぼくらが大人になったとか、SNSが全体に普及したのもあるけれど、そんな「当たり前」に接近した根本は、星の数ほどの人間が文化に出入りし、「想いや記憶」の投入と回収を繰り返し、流れの中で多様な進化・拡張を不断に引き起こしてきたからに他ならない。そして、16年分の記憶を織り交ぜ、今も瞬間瞬間に初音ミクは創造されている。この開かれゆく「未来」を以って、かつて否定された可能性と、これから生まれる可能性を掬い、肯定し、また想いを馳せる。
コンセプトと設計
初音ミクは、一般のユーザーたちで音楽やイラストを投稿しあうCGM(消費者生成メディア)を基盤に、独自の文化体系を構築し、既存の表現を拡張し、音楽観を変容させてきました。今日では、こうした拡張や変容の影響にある楽曲が、メジャーの主要チャートに多数ランクインするなど、音楽界全体へその存在を強く波及させています。
一方で、特に初音ミクが登場した 2007 年から2010 年代初頭にかけては、そのビジュアル、非人間性、特有の機械音、あるいは当時強く根付いていた「オタク」というワードへの偏見など、様々な要因でミクは広く容認されていたとは言えず、むしろ明確に排斥される状況が存在しました。
例えばこの過渡期に学生だった人々が、「学校でVOCALOID曲が流れ、周りがそれを揶揄する状況」を経験したケースはよく見かけられます。公共性と多様性を象徴する場所で、相容れない拒絶反応との間に立たされる体験は、「世間一般の人々は皆嫌っているから、好きである事を隠さなければならない」という認識を形成するのには(それが正しい認知かどうかに関わらず)十分でした。多様性とは、分断でもありました。多感な時期に「当たり前に好きに思っているモノが大きく否定される感覚」を味わうことは、きっと誰にとっても苦痛です。
しかし、時代は変化します。今や誰もがスマートフォンを持ち、老若男女がSNS へアクセスし、音楽の主戦場もインターネットへ移行しました。かつてアンダーグラウンドだったネットコミュニティと、世間一般の生活は徐々に融け合い、境界が曖昧になっています。ネット文化のコンテクストから生まれる様々なコンテンツを、ごく普通の日常生活の中でふと享受するような機会も明らかに増えました。
その結果、VOCALOIDのコミュニティには、古参のファンに加えて、「好きでも嫌いでもないが、流れで作品を享受する観光客のような層」が流入を繰り返しています。古くからミクに親しみ影響を受けた世代は成熟し、ユーザーやクリエイターのボリューム層になりつつあり、その存在感は増すばかりです。ソーシャルネイティブな今の小中学生は、まっさらな状態でミクや楽曲に接触し「当然存在する」ものとして認知しています。
人が心の深くに抱いた嫌悪が、親しみに変わるのは容易ではなく、その点で侮蔑の視線が消えたわけではありません。しかしこの16年間で、初音ミクという存在はインターネットを超えて広く認知され、興味がなかった層からそれなりに理解されるようになったことも、数多の事実が示しています。
ぼく(ぼくら)は、アニメやマンガが強く蔑まれた時代を、ロックが社会の中で腐敗や堕落の象徴だった時代を、本や記録でしか知りません。通念的な「正しさ」や「普通」は、その時々の多数派の、極めて曖昧な合意や、様々なレイヤーの上で動的に存在し、ちゃぶ台返しされる余地を残しながらこの社会を覆っています。同じように、ミクは加速する社会の中で、ずっと当たり前になってゆく可能性を残しています。
そして、この可能性に少しずつリアリティを与えてきたのは、文化を愛する数え切れないほどのユーザーたちが、16年間多様な活動を途切らせず、決して一時的な流行にすることなく今日までミクを存続させてきた、その「熱意」や「エネルギー」に相違ありません。流れの中で展開されていく、ミクにある空白を補完する何百万ものユーザーの創造力と、補完を許容する文化の器が、ミクを形成・保存・進化させ、その存在を様々な場所へと波及させてきました。この「持続」こそが、緩やかな個人の変容性や、社会の自己訂正性に対する示唆を現在進行で体現し、創造の源泉として今瞬間瞬間にも、流れの先端で新しい初音ミクを生み出し続けています。
決して「初音ミクを好きであること」が、世界のスタンダードでなければいけないという話ではありません。好悪という、個人に依拠する感性のどちらかを擁護する議論はくだらない。また、正しさをこちら側に置こうという話でもありません。なぜなら、正しさとは全てが終わった後に後世の人々が規定できるものであって、今この瞬間を評価する術を私たちは持たないからです。これは、現在地から振り返ればたくさんの想いの連鎖があって、そこに尊さを感じて、ミクが今存在する場所と向かう未来に希望を抱かずにはいられないという、一つの想いです。ぼくは、そんな初音ミクを愛していて、これからもミクが歩む世界に共に居たいと心から願っています。
本作品では、こうした変遷や構造を再確認し、スペキュラティブに実装することで、文化 / 社会的な意味や立ち位置の再定義を試みます。加えて、全体の設計に非明示的な埋め込み要素を用いた「揺らぎ」を仕込み、細部の解釈は鑑賞者にも委ねます。その先で、初音ミクの「未来」を、共に思考していきます。