散歩のメモ
考え事が浮かぶときって基本風呂入ってるときか散歩・自転車漕いでるときが8割で、こういう脳内が自動化されててリソースを他のことに活発に使える時間の必要性を感じる。
脳、「ぼーっとしてる」っていうそれ特有の活動状態があるらしくて、ほんとになにもしてないとなんも頭働かないのはそれに脳が占有されてるからなんじゃないか?逆に自転車漕いだり適度に身体への指示出してると(自動化されてるのもあって)思考のスペースが空くみたいな感覚がある。
問題として、実際には自転車を漕いでるととめどなく考え続けると同時にさっき考えたことをすぐさま、比喩でなく5秒前のことも忘れていってしまう。その場でメモるのもめんどいし、書き出せる場所についたときにはもう大体忘れてる。
と思ってたんだけど最近別にそれでもいいような気がしてきた。忘れたと思ったものって実際には海馬のどこかしらにしっかり一連の思考として残ってて、あとから関連付けて思い出せることが多い。そのときには一度考えたことが既にモジュール化されてるので色々取り回しがきく。
となると重要なのは頭を回し続ける、着実に新しい思考のピースを増やしていくこと、その時間をどれだけ確保して実践できるかになってくる。
もちろん完全に忘れてしまうこともあるだろうし、文字にするメリットは完全に思い出すことのなかったものをもう一回見つけることができること。ここらへんはscrapboxおよびObsidianで適宜…
リンクを貼らなければ私の名前とかクレジットして内容引いてもらって大丈夫とのことなのでフロクロさんのメモをば
おそらく私の身の回りの人間は私の物覚えが非常に悪いことをなんとなく知っているのではないかと思うが(特にエピソード記憶が貧弱)、2019年〜2022年の私はひたすらにメモを取ることによってその記憶力並びにワーキングメモリの不足を補い、本来なら発揮できなかった知的な生産性を得ていたように思える。そして恐ろしいことに、その数年の間メモを取って内容を反芻することが日常の中で常態化していたがために、メモを取らず反芻をやめた瞬間自分の思考能力や思想の強度が2019年以前に戻ってしまうことに気づくことができなかった。
結局頭の中に常に保持できる言葉は限られていて、如何にその言葉を厳選し圧縮し工夫して持ち歩くかが大事ということなのかもしれない。あるいは圧縮せずとも口伝の物語のように生活の中で何度も反芻すれば十分ということも。
考え事を言葉にすることを始めてから変わったこととして、いろんなものを思考の材料として捉える楽しさを思い出してきたというのがある。というか二年前は毎日がこうだったはずで、いつの間にかそのアンテナが全部折れて今頑張って修理している状況のように思える。結局思考の軸を持つというのが重要で、言葉にすることで初めてぼんやりとした感覚を道具として取り出すことができるようになる。その道具は新たな思考を形作り、より後半でシャープな思考へと繋がっていく。 自分はエピソード記憶には割と自信があるような気がしている。実際には字に起こしてなくて頭の中だけの思考もあとから思い出せたり、昔のめっちゃ断片的なメモみるだけで結構その書き込んだ瞬間のことを結構フラッシュバックできる。と思ったけどそれとは別のことを指してるのかもしれない。
なんでもいいからとにかく画面から目を離さないといけない。ベランダ出る、ドア開けてちょっと外でるだけで変わる