「ただの0と1」への違和感
コンピュータ上で処理される情報と異なり、この世界で人間が触れる情報はすべて立体的なものである。例えば、ゴッホのひまわりの絵を見たときに、「ひまわりがある」という情報を受け取ることもできるし、「様々な色が混ざっている」という情報を受け取ることもできる。他にも「絵の具が層になっている」「よれてる花がある」「額がおしゃれ」「かかってる壁が白い」など、現実では一枚の絵から受け取れる情報は無数にある。しかしこの時、「ひまわりが描かれている」より先に「様々な色が混ざっている」という情報を受け取る人はまずいないだろう。「様々な色が混ざっている」「絵の具が層になっている」といった情報は観察の結果初めて得られる「深い情報」だと言える。このように、情報には「深度」があり、「浅い情報」はひと目見た瞬間に受け取ることができるが、「深い情報」は観察や洞察抜きに受け取ることはできない。
「コンピュータはただの0と1の処理しかしていない」から「人間の扱う情報はより深い」っていう主調をするのには大分違和感がある。
もちろんコンピュータが扱ってるのはただの0と1のバイナリで、それを認識したり観察したりはしていない
そもそもここで"情報"と呼んでいるものは"意味"じゃないか
情報は物質やバイナリデータに保存されていて、意味はいつだって人間がそれに与えているもの
計算機による処理全般を0と1に還元してしまうのは「この世は全て素粒子が物理法則に則って動いてるだけ」と言ってるのと同じようなものだ
素粒子の集合とその振る舞いに意味を与えるのと同じように人間は0と1の実行結果に意味を見出す
人間が神経系に電流を巡らせてニューロンを発火させたりするのとコンピュータが機械語を実行するのは同レベルの抽象
当然だけどボカロの歌詞でよく使われがちなモチーフ
代表的なのは初音ミクの消失(ここで お別れだよ ボクの想い すべて 虚空 消えて 0と1に還元され 物語は 幕を閉じる)