島門
天満倭国が確認されると、直ちに解明される万葉歌がある。 大王の 遠の朝庭と 蟻通ふ 嶋門を見れば 神代し念ほゆ(三〇四) 柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首、の一である。通説(日本古典文学大系)は、「都から遠く離れた朝廷であるとして、人々が常に往来する瀬戸内海の島門を見ると、この島々の生み出された神代の国土創成の頃のことが思われることである。」と解する。ただし、「遠の朝廷」は「九州の役所」と解説されている。九州王朝論側は、「遠の朝廷」をそのまま「太宰府にあった古の朝廷」とし、「島門」を「志賀島と能古島との間」と解した。両者の解釈は一知半解の域を出ていない。これまで述べてきた「天満倭国」の追究の結果から言えば、「遠の朝廷」は明らかに「天神饒速日尊」の創始した「天満倭国」を指していよう。そうであれば、人麻呂の認識では、「私のお仕えする大王にとって遠い時代の遠賀の朝廷」となるのではないか。一種の掛詞と思われる。遠い時代の「遠賀の朝廷」と蟻通ふ歴史事実は、歌中の「嶋門」がそれを裏付けよう。「嶋戸物部(筑前 遠賀郡・島門)」の島門である。島門は、平安・鎌倉の記録にも「島門駅」とあり、現在の遠賀町島津に比定されている。人麻呂の時代に交通の要衝として人々の往来があったことは確かだろう。人麻呂は島門を実際に見ながら、天神降臨の神代を思ったのである。(大王は倭武大王を指すと考えているが機会を改めて詳述したい。) 「遠賀の朝廷」すなわち「をかのみかど」を考えたら、次の歌の五句の部分が明らかになった。 ちはやぶる 金の三埼を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 牡鹿の皇神(一二三〇)
吉田東伍の『大日本地名辞書』の「崗水門(ヲカノミナト)」の項の末尾に、次のような行文がある。按にこの歌の牡鹿(ヲカ)は諸家シカと訓みて、志賀海神に引きあてたり、然れとも牡鹿の牡の字の添へてあるからには、ヲカと訓むべきにあらずや、即此岡の湊の神を祈る心なるべし。この「ヲカ(遠賀、崗)の皇神」もあるいは饒速日尊を指すかも知れない、と前回は記したが、今回は断定に至った。その途端に、前の歌の「蟻通ふ嶋門」と「崗水門」がほぼ同一の場所だということが判明した。響灘から天満倭(古遠賀湾)に入る場所は、天然の「細長い水門」なのである。