新説・日本書紀㉔ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)12月22日 土曜日
仁徳天皇① 民のかまど―聖帝伝説
応神の後継者は宇治天皇
390年、15代応神天皇即位とあるが、これは筑紫王朝(倭王讃)の記録であろう。豊国の16代応神は381年に即位し、390年代には後継者を定めようとしたようだ。
応神は、皇后仲姫との間に大鷦鷯尊、皇后の姉高城入姫との間に大山守皇子、木幡村(香春町古宮)の宮主宅媛との間に菟道稚郎子皇子を設けた。応神は宮主宅媛を最も寵愛したようで、古事記には「大山守命は、山と海の政務を執れ。大雀命は天下の政務を執って、天皇に奏上せよ。宇遅能和紀郎子は、皇位を継承せよ」と詔している。以後、書紀は一貫して太子菟道稚郎子と記し、皇子大鷦鷯尊と記す。
太子菟道稚郎子は、百済の王仁から論語・千字文・経典を習う。儒家の唱える「仁(思いやりの心)」や「王道(民を大切にする政治)」を学んだようだ。
続いて、太子は応神に召された髪長媛に一目ぼれし、父帝から髪長媛を賜った。書紀は、皇太子大鷦鷯尊が髪長媛を得たとあるが疑わしい。
「既にして宮室を菟道に興てて居します」とあり、菟道稚郎子は宇治天皇(「播磨国風土記」揖保郡)として宇治の京(万葉集7番、香春町阿曽隈社)に即位したようだ。しかし、太子菟道稚郎子と大鷦鷯皇子が皇位を3年間譲り合ったとされる逸話が続く。
この時、海人が菟道宮と難波高津宮(行橋市入覚の五社八幡神社)を往還し、その間に鮮魚が腐り、他の鮮魚を献上したが、前日同様に2人が譲り合ったため、またも鮮魚が菟道宮と難波宮の往還の間に腐ってしまったというものである。両宮の中間点が味見峠だ。
香山に登り国見なさる
宇治天皇の在位3年の業績が古事記に簡潔に記されている。
天皇は、高山に登り、国の四方をご覧になり、「国中に炊煙が立っていないのは、国の民がみな貧しいからである。よって、今から3年間、民の労役と租税をすべて免除せよ」と仰せられた。このゆえに、宮殿は破れ壊れ、どこも雨漏りして、それでもまったく修繕なされず、箱を置いて漏る雨を受け、漏らない所に移り、雨を避けていらっしゃった。
3年の後に国見をなさると、国中どこも炊煙が立ちのぼっていた。そこで、民は豊かになりつつあるとお思いになり、もうよかろうと、労役と租税をお命じになった。こういうわけで、民たちは幸せになり、公の労務に苦しむこともなくなった。それで、この天皇の御世を称えほめ、聖帝の御世というのである。
2度目の国見の時に髪長媛皇后の詠んだ歌が次の歌と思われる。
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山(春が過ぎて夏が来たらしい。香山の周囲には濃い緑が繁っているが、それとは対照的に香山だけは夏の強い日差しを受けて、真っ白に輝いている。それはあたかも造化の神がそこだけに「純白のつやのある白妙の衣を乾してある」かのように眼に鮮やかに映ることよ。その香山を、天皇が民の暮らしが豊かになったかどうかを確かめる国見のためにお登りになっている。どうか、民の竈がにぎわっていますように)
香春三ノ岳こそ「天の香山」だと主張してきた。その頂上に立った宇治天皇は万葉集2番歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ」と詠んだ。ただし、奈良県の天の香具山からは永遠に海原が見えない。が、香春岳からは古遠賀湾が見えた。
次回は1月19日に掲載予定です
阿曽隈社入り口。この奥に小さな石の向がある(2014年7月撮影)
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