逢はで観る夢に現に月の影 目を閉じてこそ明らかなるらめ(ゾクチェンパとしては、刮目せんか!と言いたいw)
滴塵045
本文
逢はで観る夢に現に月の影 目を閉じてこそ明らかなるらめ(ゾクチェンパとしては、刮目せんか!と言いたいw)
形式 #短歌
カテゴリ #8.比喩・諷刺・諧謔・引用
ラベル #夢 #月 #精神 #観想 #比喩
キーワード #夢 #目を閉じる #月の影 #逢わずとも #明らか
要点
実際に会わなくても、夢の中で月影を通じて存在や真理を感じる体験。
現代語訳
会わなくても夢の中で月影を見、目を閉じることでこそ明らかに感じられるだろう。
注釈
逢はで観る:実際には会わずに、心の中で観る。
夢に現に月の影:夢(幻影)の中にも、現実(現)の中にも映る月の影。
らめ:推量の終助詞、〜だろう。
目を閉じてこそ明らかなるらめ:物理的な視覚を閉ざして初めて、真実が見えるのだろう。
刮目せんか: 目をこすってよく見よ、はっきりと悟れ、という意味。ゾクチェン的な悟りの表現を促す語。
解説
夢や観想を通じた非直接的体験の尊さを示す短歌。眼を閉じることで、五感を超えた真理や存在の感覚を得る描写。
深掘り_嵯峨ほか
この歌は、「究極の真理の発見は、外の現実ではなく内面にある」という、唯心論的かつゾクチェン的な思想を表現しています。
「夢」も「現」も、「月の影」(真理の反映)という点では本質的に同じであり、「目を閉じてこそ」、すなわち五感による錯覚を断ち切ってこそ、その真理が「明らか」になるという境地を説いています。
括弧内の注釈は、その境地への到達が遅いと感じ、「さっさと目を覚ませ(刮目せんか)」と自らを叱咤激励しているか、あるいは読者(悟りを求める者)を鼓舞している、ユーモアと求道心が入り混じった表現です。
真理は眼で見るものではないのだから、心の目で見よという意味で「眼を閉じてこそ」と言っているのだが、しかし実際の観想は目を閉じてするわけではない。半眼が基本であろう。かといって観想の方法には眼を見開いてするものもあり、ゾクチェンパとしての作者は、眼を見開く観想という意味で「刮目せよ」と言いたいのだろう。