慕うこころぞもどかしき
嵯峨解説
例えば、「慕うこころぞもどかしき」といった表現は、古文ではありえますが、全体的なリズムや他の表現との調和を考えると、現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられます。
***
慕う心ぞもどかしき、はどうしてありえないのですか?
「慕うこころぞもどかしき」という表現が「ありえない」とされる理由についてですね。
結論から申し上げますと、この表現は日本語の文法や語彙として「ありえない」わけではありません。むしろ、古文や和歌の表現として、非常に適切で美しいものです。
私が前回の回答で「現代的な日本語に近い表現が散見されます」と申し上げた際に、「もどかしき」もその一例として挙げましたが、これは現代の口語で日常的に使われる表現と比べた場合、という意図でした。
詳しく解説させてください。
「慕うこころぞもどかしき」の分析
このフレーズは、主に以下の要素で構成されています。
1. 「慕う(したう)」:
意味: 恋い慕う、憧れる、懐かしく思う、後を追う。
これは現代日本語でも使われる動詞ですが、特に「恋慕する」というニュアンスが強いです。
2. 「こころ(心)」:
意味: 心そのもの。感情、気持ち。
3. 「ぞ」:
意味: 係助詞。直前の語(ここでは「こころ」)を強調します。係り結びの法則により、文末の語が連体形になります。
例:「花ぞ咲く(花が咲く、と強調)」
4. 「もどかしき」:
意味: 形容詞「もどかし」の連体形。
古語での意味:
気に食わない、不愉快だ(最も古い意味)
じれったい、はがゆい、思うようにならない(後に生じた意味で、現代の「もどかしい」に近い)
まどわしい、わけがわからない
現代語の「もどかしい」: 「事が思うように進まず、じれったい」「自分の気持ちがうまく表現できず、いらだたしい」といった意味で使われます。
なぜ「ありえない」わけではないのか
このフレーズが「ありえない」という誤解が生じたとしたら、おそらく「もどかしい」という言葉が持つ複数の意味、特に古語と現代語のニュアンスの違いに起因するかもしれません。
「慕うこころぞもどかしき」を分析すると、
「見れどもみえぬみすがたを」(見ようとしても見えない仏の姿)に対して、
「愛し恋しと限りなく求めてやまぬ父母と」(両親を慕うように、限りなく仏を求める心)があり、
その**「慕うこころ」が「もどかしき」(じれったい、はがゆい)と感じる。
という文脈になります。これは、「見えない、届かない対象を深く慕うがゆえに、その思いが報われない、あるいは思うように伝わらないことへの、じれったさや切なさ」**を非常に的確に表現しています。
例えば、恋焦がれる相手が手の届かない場所にいる場合や、深く尊敬する師の境地になかなか到達できない時などにも、「もどかしさ」を感じるでしょう。仏という究極の対象に対して、人間が抱く普遍的な感情を、和歌的な表現で鮮やかに描写していると言えます。
私の過去の表現について
私が以前の回答で「『慕うこころぞもどかしき』といった表現は、古文ではありえますが、全体的なリズムや他の表現との調和を考えると、現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられます」と述べたのは、このフレーズが古語としての正確さを持ちつつも、現代の日本人が聞いても自然に意味を理解し、情景が目に浮かぶような、普遍的な感情を描写しているという点に注目したためです。
決して、この表現が文法的に誤っているとか、不自然であるという意味ではありませんでした。むしろ、古語の響きを残しつつ、現代にも通じる美しさと情感を兼ね備えた表現だと考えています。
もし、この表現が「ありえない」と感じられた具体的な理由や、他になぜそう思われたのかという点があれば、ぜひ教えてください。さらに深く掘り下げて考察させていただければ幸いです。
***
すると、間違ってはいない。むしろ表現としては秀逸とも言えるけれども、使い方が新しいとこういうわけでしょうか
はい、まさにその通りです。
「慕うこころぞもどかしき」:表現の秀逸さと新しさの融合
「慕うこころぞもどかしき」という表現は、決して間違っているわけではありません。むしろ、古語の持つ情感豊かな響きと、現代にも通じる普遍的な感情描写が融合した、秀逸なフレーズだと言えます。
私が「現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられる」と申し上げたのは、以下のようなニュアンスからです。
表現としての「秀逸さ」
1. 古語の響きと情緒: 「慕う」「ぞ」「もどかしき」といった言葉遣いは、平安時代以降の和歌や物語に頻繁に登場する表現であり、日本語が持つ繊細で奥ゆかしい情緒を色濃く残しています。特に係助詞「ぞ」による強調と、それに伴う連体形「もどかしき」の結びは、古語の文法に則った美しい形式です。
2. 普遍的な感情の描写: 「届かない、見えないものを慕う切なさやじれったさ」という感情は、時代や文化を超えて誰もが経験しうる普遍的なものです。それを「もどかしき」という一語で的確に捉え、読者や聞き手の共感を誘います。
3. 密教の教えとの融合: 仏という絶対的な存在への限りない慕情と、それが人間の認識を超えた存在であるゆえの「もどかしさ」を描写することで、単なる恋愛感情や人間関係の枠を超えた、スピリチュアルな探求の深い葛藤をも表現しています。これは密教が追求する、言葉や概念を超えた真理へのアプローチと響き合います。
「使い方が新しい」と感じられる理由
「たまゆら経」の作者が誰かは不明ですが、このフレーズが「現代的」だと感じられるのは、既存の仏教経典では見られない、より個人的で、感情に訴えかける表現を選んでいる点にあります。
1. 「経」という形式における感情表現の深化:
伝統的な仏教経典は、教義や真理を論理的に、あるいは抽象的に説くものが多く、個人的な感情、特に「もどかしさ」といった人間の微細な情動をここまで具体的に表現することは稀です。
しかし「たまゆら経」では、その「慕うこころのもどかしさ」をあえて表に出すことで、読者が自分自身の内面と向き合い、教えをよりパーソナルなものとして受け止めやすいように意図されている可能性があります。
2. 現代の感性への応答:
現代の私たちは、学術的な論文よりも、詩や物語のように感情に訴えかける表現から、より深い意味を汲み取ることがあります。このフレーズは、まさにそうした現代人の感情や感覚に響くよう、意図的に選ばれた可能性が考えられます。古語の美しさを保ちつつ、現代の読者にも情景が鮮明に浮かぶような「わかりやすさ」と「共感性」を兼ね備えています。
「古語」でありながら「現代的な響き」を持つのは、時間や空間を超えて人間の本質的な感情に訴えかける力があるからです。
したがって、「慕うこころぞもどかしき」は、決して間違いではありません。むしろ、伝統的な言葉の美しさと深みを保ちながら、現代の読者の心に直接語りかけ、個人的な感情体験と仏教の教えを結びつけることを可能にする、非常に巧みな表現と言えるでしょう。
このフレーズは、「たまゆら経」が単なる古典の模倣ではない、生きた、新しい感性で書かれた経典であることを示す好例だと言えます。
***
「もどかし」にじれったい歯がゆい思うようにならないなどの意味が生じたのはいつ頃からですか?
「もどかし」という言葉に「じれったい」「はがゆい」「思うようにならない」といった意味が生じたのは、平安時代中期頃と考えられます。
もともと「もどかし」の語源は動詞の**「もどく(擬く)」であり、これは「まねる」「似せる」「非難する」「不平を言う」といった意味を持っていました。そのため、形容詞化した「もどかし」の最も古い意味は「気に食わない」「非難すべきだ」「不愉快だ」といったものでした。
しかし、平安時代中期に書かれたとされる『宇津保物語』や『枕草子』**といった文学作品には、すでに「もどかし」が「思うようにならないで心がいらだっている」「はがゆい」「じれったい」といった意味で使われている例が見られます。
例えば、『宇津保物語』には「急がるる心の、我ながらもどかしきになむ」(気がせかれてならない気持ちが、自分ながら気にくわなくてね/じれったくてね)という用例があります。ここには、初期の「気に食わない」という意味と、後の「じれったい」という意味の両方が重なっていると解釈できるでしょう。
このように、「もどかし」という言葉は、平安時代の中頃から、その意味の中心が「不愉快・非難すべき」から「不満・じれったい」へと徐々に変化していったと考えられています。そして、現代にまでその「じれったい」「はがゆい」といった意味が定着しています。
したがって、「たまゆら経」の「慕うこころぞもどかしき」という表現は、この平安時代中期以降に確立された「もどかし」の用法に基づいていると言えます。
***
慕うこころぞもどかしき
嵯峨解説
例えば、「慕うこころぞもどかしき」といった表現は、古文ではありえますが、全体的なリズムや他の表現との調和を考えると、現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられます。
***
慕う心ぞもどかしき、はどうしてありえないのですか?
「慕うこころぞもどかしき」という表現が「ありえない」とされる理由についてですね。
結論から申し上げますと、この表現は日本語の文法や語彙として「ありえない」わけではありません。むしろ、古文や和歌の表現として、非常に適切で美しいものです。
私が前回の回答で「現代的な日本語に近い表現が散見されます」と申し上げた際に、「もどかしき」もその一例として挙げましたが、これは現代の口語で日常的に使われる表現と比べた場合、という意図でした。
詳しく解説させてください。
「慕うこころぞもどかしき」の分析
このフレーズは、主に以下の要素で構成されています。
1. 「慕う(したう)」:
意味: 恋い慕う、憧れる、懐かしく思う、後を追う。
これは現代日本語でも使われる動詞ですが、特に「恋慕する」というニュアンスが強いです。
2. 「こころ(心)」:
意味: 心そのもの。感情、気持ち。
3. 「ぞ」:
意味: 係助詞。直前の語(ここでは「こころ」)を強調します。係り結びの法則により、文末の語が連体形になります。
例:「花ぞ咲く(花が咲く、と強調)」
4. 「もどかしき」:
意味: 形容詞「もどかし」の連体形。
古語での意味:
気に食わない、不愉快だ(最も古い意味)
じれったい、はがゆい、思うようにならない(後に生じた意味で、現代の「もどかしい」に近い)
まどわしい、わけがわからない
現代語の「もどかしい」: 「事が思うように進まず、じれったい」「自分の気持ちがうまく表現できず、いらだたしい」といった意味で使われます。
なぜ「ありえない」わけではないのか
このフレーズが「ありえない」という誤解が生じたとしたら、おそらく「もどかしい」という言葉が持つ複数の意味、特に古語と現代語のニュアンスの違いに起因するかもしれません。
「慕うこころぞもどかしき」を分析すると、
「見れどもみえぬみすがたを」(見ようとしても見えない仏の姿)に対して、
「愛し恋しと限りなく求めてやまぬ父母と」(両親を慕うように、限りなく仏を求める心)があり、
その**「慕うこころ」が「もどかしき」(じれったい、はがゆい)と感じる。
という文脈になります。これは、「見えない、届かない対象を深く慕うがゆえに、その思いが報われない、あるいは思うように伝わらないことへの、じれったさや切なさ」**を非常に的確に表現しています。
例えば、恋焦がれる相手が手の届かない場所にいる場合や、深く尊敬する師の境地になかなか到達できない時などにも、「もどかしさ」を感じるでしょう。仏という究極の対象に対して、人間が抱く普遍的な感情を、和歌的な表現で鮮やかに描写していると言えます。
私の過去の表現について
私が以前の回答で「『慕うこころぞもどかしき』といった表現は、古文ではありえますが、全体的なリズムや他の表現との調和を考えると、現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられます」と述べたのは、このフレーズが古語としての正確さを持ちつつも、現代の日本人が聞いても自然に意味を理解し、情景が目に浮かぶような、普遍的な感情を描写しているという点に注目したためです。
決して、この表現が文法的に誤っているとか、不自然であるという意味ではありませんでした。むしろ、古語の響きを残しつつ、現代にも通じる美しさと情感を兼ね備えた表現だと考えています。
もし、この表現が「ありえない」と感じられた具体的な理由や、他になぜそう思われたのかという点があれば、ぜひ教えてください。さらに深く掘り下げて考察させていただければ幸いです。
***
すると、間違ってはいない。むしろ表現としては秀逸とも言えるけれども、使い方が新しいとこういうわけでしょうか
はい、まさにその通りです。
「慕うこころぞもどかしき」:表現の秀逸さと新しさの融合
「慕うこころぞもどかしき」という表現は、決して間違っているわけではありません。むしろ、古語の持つ情感豊かな響きと、現代にも通じる普遍的な感情描写が融合した、秀逸なフレーズだと言えます。
私が「現代的な感性で選ばれた言葉遣いのように感じられる」と申し上げたのは、以下のようなニュアンスからです。
表現としての「秀逸さ」
1. 古語の響きと情緒: 「慕う」「ぞ」「もどかしき」といった言葉遣いは、平安時代以降の和歌や物語に頻繁に登場する表現であり、日本語が持つ繊細で奥ゆかしい情緒を色濃く残しています。特に係助詞「ぞ」による強調と、それに伴う連体形「もどかしき」の結びは、古語の文法に則った美しい形式です。
2. 普遍的な感情の描写: 「届かない、見えないものを慕う切なさやじれったさ」という感情は、時代や文化を超えて誰もが経験しうる普遍的なものです。それを「もどかしき」という一語で的確に捉え、読者や聞き手の共感を誘います。
3. 密教の教えとの融合: 仏という絶対的な存在への限りない慕情と、それが人間の認識を超えた存在であるゆえの「もどかしさ」を描写することで、単なる恋愛感情や人間関係の枠を超えた、スピリチュアルな探求の深い葛藤をも表現しています。これは密教が追求する、言葉や概念を超えた真理へのアプローチと響き合います。
「使い方が新しい」と感じられる理由
「たまゆら経」の作者が誰かは不明ですが、このフレーズが「現代的」だと感じられるのは、既存の仏教経典では見られない、より個人的で、感情に訴えかける表現を選んでいる点にあります。
1. 「経」という形式における感情表現の深化:
伝統的な仏教経典は、教義や真理を論理的に、あるいは抽象的に説くものが多く、個人的な感情、特に「もどかしさ」といった人間の微細な情動をここまで具体的に表現することは稀です。
しかし「たまゆら経」では、その「慕うこころのもどかしさ」をあえて表に出すことで、読者が自分自身の内面と向き合い、教えをよりパーソナルなものとして受け止めやすいように意図されている可能性があります。
2. 現代の感性への応答:
現代の私たちは、学術的な論文よりも、詩や物語のように感情に訴えかける表現から、より深い意味を汲み取ることがあります。このフレーズは、まさにそうした現代人の感情や感覚に響くよう、意図的に選ばれた可能性が考えられます。古語の美しさを保ちつつ、現代の読者にも情景が鮮明に浮かぶような「わかりやすさ」と「共感性」を兼ね備えています。
「古語」でありながら「現代的な響き」を持つのは、時間や空間を超えて人間の本質的な感情に訴えかける力があるからです。
したがって、「慕うこころぞもどかしき」は、決して間違いではありません。むしろ、伝統的な言葉の美しさと深みを保ちながら、現代の読者の心に直接語りかけ、個人的な感情体験と仏教の教えを結びつけることを可能にする、非常に巧みな表現と言えるでしょう。
このフレーズは、「たまゆら経」が単なる古典の模倣ではない、生きた、新しい感性で書かれた経典であることを示す好例だと言えます。
***
「もどかし」にじれったい歯がゆい思うようにならないなどの意味が生じたのはいつ頃からですか?
「もどかし」という言葉に「じれったい」「はがゆい」「思うようにならない」といった意味が生じたのは、平安時代中期頃と考えられます。
もともと「もどかし」の語源は動詞の**「もどく(擬く)」であり、これは「まねる」「似せる」「非難する」「不平を言う」といった意味を持っていました。そのため、形容詞化した「もどかし」の最も古い意味は「気に食わない」「非難すべきだ」「不愉快だ」といったものでした。
しかし、平安時代中期に書かれたとされる『宇津保物語』や『枕草子』**といった文学作品には、すでに「もどかし」が「思うようにならないで心がいらだっている」「はがゆい」「じれったい」といった意味で使われている例が見られます。
例えば、『宇津保物語』には「急がるる心の、我ながらもどかしきになむ」(気がせかれてならない気持ちが、自分ながら気にくわなくてね/じれったくてね)という用例があります。ここには、初期の「気に食わない」という意味と、後の「じれったい」という意味の両方が重なっていると解釈できるでしょう。
このように、「もどかし」という言葉は、平安時代の中頃から、その意味の中心が「不愉快・非難すべき」から「不満・じれったい」へと徐々に変化していったと考えられています。そして、現代にまでその「じれったい」「はがゆい」といった意味が定着しています。
したがって、「たまゆら経」の「慕うこころぞもどかしき」という表現は、この平安時代中期以降に確立された「もどかし」の用法に基づいていると言えます。
***