マカフェリーの相続税廃止論
相続税は出発点を平等にするために必要?
出発点を個人の人生におくか共同体の人生に置くかで話は変わる
「家族のためにお金を残しておきたい」という考え方は素朴に許されるべきだと思ってしまうが、「実家が太い」という現象の根っこでもあるのは確か
所得税は、私的かつ排他的に使用できる所得というものが存在する限りは必要かもしれない
要約
一言で言えば、マカフェリーにとって、功利主義的な議論は補助的な議論にすぎないということである。相続税廃止論の主眼は、あくまでもリベラルな議論にある。では、リベラルな議論の本質的な論点は何か。それは、労働と倹約(貯蓄)がよいことであり、消費、特に大きな消費は好ましくないという価値観である。それをマカフェリーは「リベラルな」価値観と呼ぶ。相続税ならびに所得税はこの価値観に逆行するから廃止するべきであり、累進的消費税はこの価値観に適合するから導入すべきなのである。相続税ならびに所得税がこの価値観に逆行するのは、相続税や所得税が労働と倹約に対して課され、したがって労働と倹約を抑制する効果があるからである。他方、累進的消費税がこの価値観に適合するのは、累進的消費税が消費、特に大きな消費に対して重く課され、結果的に消費、特に大きな消費を抑制する効果があるからである。 批判
第3節では、マカフェリーが相続税の廃止を主張するリベラルな議論に対する批判を7点にわたって述べた。その中で中心的な論点は、相続税なしの累進的消費税の帰結に関する批判が1つ、労働と倹約がよいことで、消費が好ましくないという「リベラルな」価値観に対する批判が3つの計4点であった。すなわち、第1に、マカフェリーの「リベラルな」租税枠組みでは、大きな財産が容易に蓄積されて、働かないで生きていく「リベラル」でない階級が生まれるということ。第2に、労働がそれ自体で徳であるという考え方は合理性を欠くということ。第3に、社会(世界)全体で見た場合、労働と消費は釣り合わねばならない、したがってたくさん労働し少しだけ消費するという生き方は普遍化可能ではないということ。第4に、マカフェリーの言う「リベラルな」価値観は、マックス・ウェーバーの言う資本主義の精神に他ならないが、それは自由主義とは別物だということであった。このなかで最も実質的な批判は最初の2つになるだろう。第4の批判は、「リベラルな議論」を「資本主義の精神からの議論」と言い換えることでかわせるし、第3の批判も、労働と倹約を単に理想の徳目として、厳密な普遍化を想定しないことができるだろうからである。そうすると、残った第1の批判が内在的な批判、第2の批判が外在的な批判ということになる。特に、第1の内在的な批判がマカフェリーの議論に対して強力な反論になると、私は考える。また、この批判は、出発点の平等を強調する自由平等主義の理念からの反論にもなっている。というのは、生まれながらに働かなくても生きていける人がいるというのは、出発点の平等を大いに損なっているからである。もちろん、倹約家さんの子孫が末代までも倹約家さんの徳を継承して、遺産にまったく手を付けないというのならば、話しは別であるが、そのような想定は現実的とは思われない。 第3の点の補足:
単純に言えば、すべての人(n 人)が800万円を稼ぐということは、n×800万円の消費をする人がいるということである。すべての人(n人)が400万円の消費をするときに、どうしてn×800万円の商品やサービスが売れたりするだろうか。そのようなことはありえない。
貿易黒字国なら可能だが搾取とも言える
その他の批判:
第4に、マカフェリーは所得が社会的資源の蓄えへの貢献を表すと考えるようであるが、その考え方は正確ではない。所得と勤労・労働とは同じではないからである。たしかに、労働は社会的資源の蓄えへの貢献を表すかもしれない。しかし、労働が個人にとって差しだすものであるのに対して、所得は受けとるものである。つまり所得とは、産みだされた社会的富のなかから個人が私的に受けとるものである。しかもそれは排他的であって、私が受けとったものを、基本的に他人が使用することはできない。