「書く」ということを(ちょっとだけ)学んだら、自由になった
昨年末、このブログを書いていて思ったことがありました。
「もっと上手く書けるようになりたい」
書きたい主題についての思い入れは十分あるつもりなのに、それを文章で表現しようとしたときに、スムーズなときもあれば、なかなか筆が進まないときもある。
特に「最後のまとめ」。どうまとめようか、どう締めくくろうか、というところはわりといつも筆が止まってしまいます。
そこで、考えました。 「今までなんとなく我流で書いてきたけど、そろそろちゃんとした文章の書き方を勉強してみよう」
まぁ、40代にもなっていまさら感もあるわけですが(苦笑)
まず手始めに、アウトプットのためにはインプットが必要だろうと考えて、図書館に行きました。そこで、2冊の本を借りたと思います。1つ目は、メンタリストDaiGo著「人生を思い通りに操る 片づけの心理法則」。
20代の頃に「片付け上手は仕事上手」という言葉を知り、それ以来気に入って自分の信条にしています。とはいえ、そんなにバリバリ仕事ができる方でもない気がするので、「せめて片付けだけはきちんとやって、仕事上手に近づけるようになろう」と、職場の作業環境を綺麗に保つことには人一倍気をつけてきたつもりです。そこで、「片付け上手」と「仕事上手」がなぜ繋がるのかをちゃんと再確認したくて、手に取ったのがこの本でした。
内容はぜひ読んでいただきたいのですが、人気があるようで、熊本市立図書館ではいつ検索しても貸出中になっています。
2つ目は、齋藤孝著「原稿用紙10枚を書く力」。これは直接的で、ブログを書くときに文量が増えてくると頭の中で整理がつかなくなったり筆が進まなくなったりする気がしていたので、原稿用紙10枚=4,000字書けるようになったらいいなと思ったわけです。
実は、読書は苦手でした。いや、正確には、今でもまだ得意ではありません。縦書きの文章だと同じ行を繰り返し読んでしまったり、そもそも読むのに時間がかかったりして、それだけで「苦行」だったわけです。かといって、小学生の頃からアスキーの「LOG IN」やら「MSXマガジン」などの雑誌のコラムなどは普通に(むしろ楽しく)読めていたので、識字障害とかそういうことではないはずなんですが、どうも読書という行為に興味が向かなかったのです。これについては、今激しく後悔しています。若い頃の自分に言ってやりたい。もっと本を読め、読書はいいぞ、と。
ですが、気づきました。どうやら単純に、読書という行為の訓練が足りなかった、それだけだったのです。たった数冊、わりと読みやすいものを読めたおかげで、読書の基本的な作法がちょっとだけわかりました。一字一句読まなくていい、全部読まなくていい。ある程度さらさらと文字を追い、大事そうだとか面白そうだとか、興味を惹かれたところだけじっくり読めばいい。文学作品だとそうもいかないのかもしれませんが、ことこの2冊のような実用書に関しては、すでに知っていることや、感覚的に合わないなと思うことも書かれていて、すべてを飲み込む必要もないわけです。これによって、読書という行為に対する心理的なハードルがぐっと下がりました。
それからというもの、気づけば2週間に一度は図書館に足を運び、何らかの本を借りています。なかなか時間が取れなかったり気力が起きなかったりで読めないこともありますが、それもそれでいい、また借りればいい、と気楽に構えるようになりました。
そんなある日、次は何を借りようかな、とネットで物色していたところ、1冊の本が目に留まりました。なぜ目に留まったのか、きっかけは覚えていません。ですが、とても良さそうな本なのに絶版になっていて、だったらなおさら読みたい!と強く思ったのを覚えています。
探してみたところ、幸いにして私が行ける範囲にある熊本市立図書館に蔵書がありました。 年末年始の休館日が明けるのを待って、その本を借りに行きました。
検索機で探してみると「書庫」とあります。レシートを印刷して係りの方に尋ねてみると「書庫から持ってくるのでしばらくお待ちください」と、番号札を渡されました。初めての体験です。他の人がその存在すら知らない知識が書庫に眠っていて、今まさにそれを手にしようとしている。まさか、自分が読書に対してこんな高揚感を抱くとは、思ってもみませんでした。
その本が、マーク・リービー著、森重優実訳「書きながら考えるとうまくいく!プライベート・ライティングの奇跡」です。冒頭にこのような推薦文が書かれています。
現在は、マイクロソフトやウェブ関連会社のスタートアップに見られるように、経済価値はほとんどすべてが閃きから生まれる頭脳労働の産物である。決して重労働の産物ではない。
マーク・リービー著、森重優実訳「書きながら考えるとうまくいく!プライベート・ライティングの奇跡」
その頭脳労働が、すなわち「書くこと」だというのです。
ほんの数冊ですが、この数ヶ月で読んだ本のほとんどに、ざっくりとまとめると、こう書かれているのです。
「とにかく書け」
と。文章の技法や構成の手法ではなく、文章を「とにかく書く」ための工夫が書かれているのです。例えば、「誰にも見られないように」や「時間を決めて」とか「力を抜いて」「速く」「台所語で」などのように。特に「台所語」はインパクトのある言葉で、簡単にいうと、自分だけがわかればいいのだから、正しい日本語でなくてもいいし、存在しない単語でもいいから、とにかく頭の中から出てくる言葉に耳を傾けてそれを書きなさい、と。
これらのことに気をつけて実際に書いてみると、たしかにスラスラと書けないこともありません。そして気づいたことに、私の場合は頭の中だけでうまいこと考えることができていると思ったら大間違いで、往々にして堂々巡りしていてとても効率が悪いのです。書きながら考えると堂々巡りは防げるし、書くことによってまったく違うことが頭に浮かんできてもそれをキャッチして書いておけばアイデアが逃げてしまうこともない。大げさでなく、今まで生きてきた42年間、どれだけ時間を無駄にしてきたんだろう?と衝撃を受けました。
そして、今読んでいる途中のジュリア・キャメロン著、矢野紀子訳「あなたも作家になろうー書くことは心の声に耳を澄ませることだから」には、さらにこう書かれています。
では、私たちはいつ言葉に対する力を失うのか。「言語に長けていて作家になる人もいるが、私の言葉はいい加減だから、文章の世界には縁がない」と、思い込むのはいつか。多くの人にとって、そういう振り分けが始まるのは、学校ではないだろうか。学校では、「よく書けている」かどうか評価されるようになるからだ。 (中略) 問題は「書く人は作家である」という事実が発想に浮かばないことだ。そのかわり、「作品が出版される人が本当の作家だ」とか「文章を書いて生計を立てられる人が本当の作家だ」と思い込む。ある意味で、他人から作家と認められる人が本当の作家だと考えているのだ。
ジュリア・キャメロン著、矢野紀子訳「あなたも作家になろうー書くことは心の声に耳を澄ませることだから」
多くの人が、文章を書くこととは「正しく書く」ことであり「立派で高尚なものを書く」ことだと思い、結果的に「書かない」「書けない」と思うようになっている、というのです。
「上手く書けるようになりたい」
「そろそろちゃんとした文章の書き方を勉強してみよう」
という私の考えは、そもそも間違っていたわけです。言われてみれば「正しい音楽」や「正しい絵画」なんて定義はどこにもなくて、誰かが生み出した音楽や絵画は、それそのものが「存在」しているわけです。売れる音楽が正しいわけでもないし、万人が素晴らしいと思う絵画が正しいわけでもない。だから、「正しい」を目指すことは、極端に言えば「徒労」なわけです。どうがんばったってゴールなんてない。だとすれば、「正しい」文章を書こうとして身体を硬直させるのではなく、思うままに書けばいい。「書く」ことと、文法を整えたり誤字を直したりする「校正」は同時にやってはいけない。
そして、今では多い日で3,000字から4,000字の文章(人様にお見せできるようなものではありませんが)を書くようになりました。なんと、原稿用紙10枚分の文章を1日で書けるようになったのです(人様にお見せできるようなものではありませんが)。
「リベラルアーツ」というと、日本では「一般教養」と訳されることが多いように思いますが、本来の意味は「自分を自由にする技」。自分の内なる言葉に耳を傾けながら文章を書くことで、今までの何倍も自由になった。そんな気がしています。
そして、この自分自身の変化が、予想外の展開を招きます。
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