10 補遺の連鎖とハイパーテキスト ハイパーメディア・ライプラリーとライティング
この章には何が書かれているのか?
日本語の論文と英語の論文とでは異なる
形式論理に従う丹念な議論の展開・事実の提示、書きての視点を明示する語り口(ヴォイス)の明示化が英語の論文では重視される
そうした違いの中で、まず著者がつまづいたのが註のつけかた
アメリカの人文科学では事実の出典以外の註を嫌う
あちこちに思考が拡散していくことは嫌われ、註を必要としない明晰さが大切
その意味で、註はテキストを汚す危険なものとして扱われている
しかし、文字テキストの中に自分の言いたいことを明晰に表現するのは至難の業
単純な思考、あるいはすでに定評のある思考であればうまく収まる
しかしそれでは、自分の考えは伝わらない
註を必要としない明晰な文章は、より趣味の服装のようなもの
一度わかってしまえば、自分の趣味を出しつつも、よい趣味に留まれる
ジョナサン・カラーはそうした文章を書く
彼はポストモダンの人々が、デリダを意味の消失と軽い記号の戯れであるとしていた考え方に批判的だった
「意味の戯れ」の意味を再検討した
カラーにとっての脱構築とは
脱構築は、統一的な内容あるいは主題を把握しようとする伝統的な意味でのテキスト解釈を目ざすのではない。それは、テクストの議論のうちに作用している形而上学的な諸対立に疑いを投げ掛けるもう一つの理論を(たとえばルソーにおける補遺の戯れ)、テクストの中にある譬喩やレトリックの関係の中に探ろうとするのである
譬喩(ひゆ)
rashita.iconある主題を捉える読み方があるとして、それとは違う主題を捉える読み方が脱構築というわけではない、ということ
カラーによるデリダ
脱構築的解釈→人間と人間主義を乗り越えようとしている
「人間」という名(概念)が、一つの充実した現前、根源を夢見てきた存在だからこそ、それを超克する
理論の言語は、常に余剰を残す
だったら理論化、明晰化は無意味か?
ゲーデルが、数学の不完全性を証明したからといって、数学者が仕事を止めるわけではない
にもかかわらず、意味の究極的な決定不能性を主張する理論は、すべての努力を無意味にしてしまうという信念が強い
ある対立を脱構築することは、その対立を捨て去ることではなく、再び位置づけること
脱構築における意味の戯れ→世界の戯れ(『エクリチュールと差異』)
テクスト一般が、つねにさらに関連、相関、コンテキストをつくりだすものの帰結であるにすぎない
脱構築における読みは、テキストを破壊して、不在の一元化につくことではない
テキストが世界の戯れのなかで生成されていると認識して、そのメカニズムを暴くこと
同じ視点は、読みだけでなくライティングにおいても有用
統一的な内容の伝達ははじめから無理だとして戯れに留まるのでもなく、確固たる信念や形而上学的な存在への信念を維持しようとする立場でもない。
ライティングは、世界のなかの戯れであると認識すること
ハイパーテキストは、世界の戯れを電子化する試み
テッド・ネルソンの『ドリーム・マシーン・コンピュータ・リブ』
ハイパーテキストに関連して
普通のテキストは、シークエンス
話し言葉をもとにしている(シーケンシャルでなければならない)
本はシーケンシャルに配置されていないと読みづらい
しかしアイデアの構造はシーケンシャルではない
あらゆる形で絡み合っている
だから、テキストを書くとき、私たちは資料をシーケンシャルでない方法でつなぎ合わせようとしている
たとえば脚注は、シーケンシャルの切断である
デリダの『グラマトロジーについて』→エクリチュール(ライティング)の復権を主張
ヨーロッパのエクリチュールはパロールに支配されている音声におけるロゴス中心主義
脱構築は、そこに反旗を翻す
シーケンシャルに知識を大家つける書物の終焉
音声に支配されないライティングの始まり
アンチエ下形式の中に安住する思考を解体する
それは新しいライティングの試みでもある
ネルソンが指摘する普通のライティングの問題と、音声中心主義的エクリチュールの問題は同質
補遺を持ち出す点も
補遺は現前の欠如(テキストそれだけでは足りないから、付け加える)
物事を現前させることの出来ないシーケンシャルにつながるライティングしか持ちえないという諦めがテキストを痕跡として取り扱う態度を呼ぶ
ハイパーテキストはそれを変える
ただし、ネルソンの宣言から20年ほどハイパーテキストの開発は止まっていた
しかし、ゼロックス社「ノート・カード」オウル社「ガイド」アップル社「ハイパーカード」などが開発された
さらにネルソンのザナドゥ・プロジェクトも進んでいる(rashita.iconしかしこれは途中で挫折した)
ハイパーテキスト
データにいっさいの構造を与えていないシステム
テキストの断片があり、つなぎ合わされているだけ
巨大な箱の中にテキストの断片が分類されずに放り込まれている
テキスト同士が網の目のように張り巡らされた糸によってつながれ、お互いの補遺になっている。
rashita.iconテキストの相互的な参照、引用、補強、反論……
物理的な世界は不可能だが、「コンピュータにすべての物事とその関連を記憶させれば」可能
シーケンシャルなテキストを「越えた」(ハイパーな)電子仕掛けのテキスト
電子メディアの中の補遺の連鎖によって形成される
なぜハイパーテキストが必要か?
物事やアイデアの本当の構造を現前させるため
rashita.iconいささか怪しい響きがある
「すべての物事は関連している」というのをどう表すか
文学はシーケンシャルでない構造でそれを試みる
ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』
人間の思考は音声中心的なライティングに納まるような単純さではない
rashita.icon単純でないとして、それは何か。ランダムか、カオスか
古典派は形式を重視し、それをなんとか納めようとしてきた
上記のような学問では、知識と知識体系が同時に伝達される
体系が固定化していて、知識量によって学問の達成度が測られる
rashita.icon全体が決まっているので、あとはどれだけをそれを埋めたのか、という観点が採れる
しかし、体系を問うことが大切であり、体系を構築する能力こそが重要
そのために充実した知識が役立つ
開かれた本=ハイパーテキストは、ライティングではない
ナレッジ・ベース
知識だけでなく、知識の体系も収めている
ライティングにおけるハイパーテキスト
ライティングあるいはテキストの作成は、ハイパーテキストとして存在している知識の加工
rashita.iconネットワークをツリーに切り取る(写像)
テッド・ネルソンによるライティングで起きていることの説明