序章 これがホントの哲学だ
序章 これがホントの哲学だ
章第に「ホント」のカタカナが使われているので、真面目に「本当の」を主張するのとは違うぞ、というニュアンスを感じる
この章では何が書かれているか?
何を扱うのか?
「ありそでなさそでやっぱりあるもの」(面倒なのでANAとする)
著者はこのANAこそが哲学が考え続けてきた中心主題だとする
その中心主題を扱うから、「哲学入門」だというわけだ。
ただし、以下の記述に注目。
本書は二〇〇〇年以上におよぶ哲学の歴史と問題を共有している。しかし本書には歴史上有名な哲学者はほとんどでてこない。プラトンもアリストテレスも、デカルトもヘーゲルも、ニーチェもフッサールもハイデガーも出てこない。
つまり、従来の哲学史が含む問題意識と共通項があるが、哲学史そのものではないということ。
従来の「入門書」ではないと宣言されている
じゃあ、本書は何なのか?
デネット、ミリカン、ドレツキ、ペレブームなどの哲学者が言及される
それらの人々は存命中であり、著者に言わせれば、
私がこれぞ本道だと思っている哲学、つまり科学の成果を正面から受け止め、科学的世界像のただなかで人間とは何かを考える哲学の推進役なのである。
とある。
本書はそうした哲学の「入門」ということ
ただし名前を挙げた人物の思想を紹介して終わりというのでもない。
そうした思考を一つの補助線にして、ANAなものの本性という哲学の中心問題にダイレクトに取り組む
その意味で、「戸田山哲学入門」くらいの感じでもいい
ここまでのまとめ
著者(戸田山)にとって、哲学の中心問題は「ありそでなさそでやっぱりあるもの」であり、本書はそれを中心に進められることが宣言された
ANAとは何か
「意味」を例に挙げて検討される
私たちにといって「意味」とはあるのが当然という感じがする
しかし、意味には実体(物理的な実体)がない
この世界には物理的なものしか存在しないという考えでは、意味はない(存在しない、「ある」ではない)ということになる
こうした考え方は、唯物論・物理主義と言われる
この世はようするに、物理的なものだけでできており、そこで起こることはすべて煎じ詰めれば物理的なもの同士の相互作用に他ならない
こういう考え方のこと
唯物論にとっては、意味・情報・目的・機能・価値・道徳・意志の自由・美といったものは「存在」しない。
rashita.iconこの列挙の段階で、ああ本書はこうしたものを「ある」と主張していくのだろうなと予想が立つ
日常生活を営む限り(rashita.iconこの前提が非常に重要)、あるのが当然に思われるが、科学的・理論的に反省するとホントウはなさそうだ、ということになり、しかしだからといって、それなしに済ますことはできなさそうに思えてならないもの→「存在もどき」(ANAという名称が更新された)
存在もどきをどう扱うか
二元論はどうか
物理的な次元と精神的な次元のような二つに分け、後者で存在もどきを扱う
昔はこのスタイルの説明が多かった
著者はこうした切り分けは不健全だという
ここで著者自身が唯物論者だと宣言される
唯物論者は物だけという一元論なので、二元論は採用しない
ではどうするか?
存在もどきをどうにかして物だけの世界に書き込む
これが本書の中心的な課題
物とまったく同じようには書き込めないにしても、物とはちがったかたちの「在り方」がありうると主張すること
これが本書が以降で試みていく挑戦
どんな戦略があるか
三つが検討される。(rashita.iconこういうときは最後の一つが言いたいことで、最初の二つはそれを補強するための素材として読む)
第一の戦略:還元主義
ババナを見て「あっ、バナナだ」と思ったときのノウノウ活動を記録することで、バナナの意味を確定したとする立場
しかしニューロン以外で同様の意味が発生するならば、上記ではうまくいかない。一つ抽象度を挙げて「あっ、バナナだ」と思ったことはどういうことかが記述できなければいけない
もう一つ、ニューロン活動の記録だけでは、「なぜそれがあるのか」が記述できない
rashita.iconとは言え、「なぜそれがあるか」は目的であり、唯物論では目的がないわけだか、唯物論スタンスをまったく崩さないなら「なぜそれがあるのか」は記述できなくて当然という感じはする
第二の戦略:観点に応じて
コンピュータチップがどう動いているかという記述を無視して、私たちは「コンピュータが次の一手を考えている」と捉える。認識のレイヤが変われば、「意味」や「目的」なども立ち現れてくるという視点
デネットがこういう立場をとっている
rashita.icon僕もこの感じが近い
ただしこの場合「一枚の絵」ではなく観点の数だけで絵が(分割された世界が)現れる点で著者は不満
存在もどきのあるなしが、観点に依存することになる
たとえば、人間という固まりの視点がなくなると、意志というような存在もどきはなくなる
つまり「意味」はわれわれの見方の産物、というような視点になる
rashita.icon僕はそう思うけれども。
第三の戦略:段階的に生じたとする
最初は何もなかったが、生物が生まれ、より複雑になるようになって、存在もどきのようなものが発生してきたと考える。
重要な点1
システムが進化するにともなって、それぞれの段階を考えるのに適切な観点のレベルも並行して現れる
第二の戦略との違いは、観点・視点というのは自由に選べるのではなく、私たちが生物的・システム的に獲得したものに限られるという点。ある種の制約(それも物理的な制約)を持っているとする。
発生的観点という用語でまとめられる
重要な点2
存在もどきの発生は、進化の途中から生きもののもつ表象能力が格段に高まったことが大きな動因になっている
表象の進化、という観点から出発すると宣言
以降の章の流れが概観される
最後の基本姿勢の説明
唯物論的世界観を背景にした一枚の絵の中に存在もどきを収める、ということをするのは誰か
科学者がラフスケッチをし、科学者がそれを確かめる
自然主義
rashita.icon「自然を大切にしましょう」ということではなく、「超自然的なもの」(昔の哲学)を認めない姿勢のこと。つまり科学で扱える土俵で物事を進めていこう、という哲学のスタイル。
以上をまとめて
唯物論的・発生的・自然主義的観点とまとめており、その「哲学入門」であることが明かされる
汗牛充棟という四字熟語
蔵書がきわめて多いことの形容。本が非常に多くて、牛車に積んで運ぶと牛も汗をかき、家の中に積み上げれば棟木むなぎにまで届いてしまう意から。
これが章の最後の結びと関わってくる
存在もどきは観点に応じて現れると捉える第二の戦略について
choiyaki.iconこの節に書かれていることが、とても意味がとりづらい。というか正直よくわからない。コンピュータの話になってるが、バナナで考えたらどつなるの?
rashita.icon詳しく読んでみましょう
「存在もどき」の一つ、ここでは「意味」が対象になっている
で、目指されているのは唯物論的世界観において、「存在もどき」をどのように調和させるのか
第一の戦略は還元主義で、物理現象を記述したらそれでOKとする方法。
しかし、著者の指摘ではこの戦略には弱い部分(足りない部分)がある。
第一に、たとえば人がババナを見たときの脳の(ニューロン・ネットワークの)反応を記録したとしても、それが「バナナを意味する」と直結はできない。
なぜなら、(あくまで仮想だが)人工知能をもったロボットがババナを見たときにはニューロンではない別のネットワークが反応している、ということが考えられる。
ニューロン・ネットワークと電気的ネットワークは二つの違う物理現象だが、その二つが同じものを指し示すようなものを「バナナを意味する」とするならば、物理現象よりも一段抽象的な説明(というよりも説明の階層)が必要になるよね、という指摘
第二に、仮にそうして物理現象で記述することができたとしても、なぜそれが存在するのか(必要とするのか)までは説明できない。そこもちょっと物足りない。
以上は、還元主義的なアプローチを完全に否定するものではなく、足りない部分があるよね、という指摘
で、いよいよ第二の戦略
「観点」を導入する
ここは説明がなかなか難しい。
とりあえず、バナナで考えてみる(この考えてみるというのは、「存在もどきは観点に応じて現れると捉える」という見方に立てば、どのように記述できるのかという話)
もしバナナという物質を、分子レベルでしか捉えることができなければ、それは「バナナ」だろうか。
認識者において「バナナ」という認識が立ち現れるだろうか
立ち現れるならば、そこに「バナナ」という意味が生まれていることになるし、そうでないなら「バナナ」という意味は生まれていないことになる。
これはバナナ以外の対象でも同じことがいえる。
ということは、この世界のすべてを分子レベルでしか捉えられないならば、あらゆる言葉=意味というのは存在していないことになる。
逆に言えば、私たちは分子レベルよりも上の(抽象度が高い)レベルで捉えるときに、「意味」という物質ではない存在もどきが立ち現れる。
そのレベルごとの視点(根本的な物の見方ということ)が観点
choiyaki.icon「この機械が意味を理解しているとは考えにくい。」とあるが、コンピュータが意味を理解しているか否かの話なの?
「この機械が意味を理解しているとは考えにくい。」というのは、観察者が「この機械、意味を理解しているな」とは思わない(思いにくい)ということです。
つまり、観察者がそこに(コンピューターの中に)「意味(の理解)」が生まれているとは思いにくい。
チェスを打つ主体と捉える観点。
choiyaki.iconわからん。
逆に、高度なコンピューターとチェスを打っているときは、(コンピューターにあまり詳しくなく、アルゴリズムの理解もないような一般の人の場合は)、あたかもそのコンピュータがルールを「理解」している、つまり一手一手の「意味」を理解しているように、思われる。
choiyaki.iconなるほど。例えばチェスのコンピュータゲームを作っているプログラマーの観点に立てば、コンピュータがチェスを理解しているとはまったく思わないわけで。
これは、チェスの打ち手をアルゴリズムによって判断しているという観点(バナナで言うところのバナナを分子レベルで見ている観点)ではそこに「意味(の理解)」はないし、チェスのゲームをただやる、楽しむ人からしたら、あたかも「意味(の理解)」があるように思える。
そんな風に、観点によって「意味」というのが現れたり、現れなかったりする。
でもって、先ほどは人間がコンピュータを観察する視点だったけども、その観察対象を人間にしても同じことがいえる。
人間も単に原子・分子レベルの物質とだけ見るならば、そこに意味が生じているようには思えない。
しかし、行為の遂行者として見た場合、そこには「意味」があるように思われる
rashita.iconこの推論には問題というか穴があるわけですが、おそらくこれは後ほど検討されるでしょう。
意味というのが実存するものではなく(それは唯物論的世界観では否定されているわけですから)、意味があるように見える(思われる)という着地点。
choiyaki.iconなるほどです。
で、唯物論的世界観においてすべて物だよね、原子だよね、という見方ならばたしかに「意味」に代表される存在もどきは「在る」ことができないわけですが、「人間」という固まり(すでにこの時点でもう意味が生まれている点に注意)で物事を捉えているとき、さらにその「人間」が何かを為す存在だと解釈されるとき(これは一般に物語という形式の意味を発生させている)、明らかに「意味」というのが生まれている。
よって、一番低い観点では「意味」は有り様もないが、観点を変えれば「意味」は実存しているのとは違う在り方で在ると言えるのではないか、というのが二番目の戦略。
rashita.iconこんな感じでいかがでしょうか。
まだわかりにくければコメントくださいませ。
choiyaki.icon理解できました!ありがとうございます!「バナナで考えたらどうなるの?」というのを解説してもらったおかげで理解できたので、次はその疑問を自分で考えてみます。でもわからんかったら、また「まったくわからん」とか書くかもです。
rashita.iconどんどん書きましょう。