全般的な知識管理(ナレッジマネジメント)についての考え方の整理
以下の内容をうけてもう一段抽象的なまとめを考えておきます
まず、ルーマンの手法は以下の性質を持ちます
学術的な研究において、論文を書くという目的を持つ
科学的な実験をするわけではない
フィールドワークをするわけでもない
読んで、書くという比較的閉じたプロセス
とは言え、文学研究などでもなかった
基本的に一人で作業している
だからこそ「対話の相手」を必要としている
同じ発想をチームで仕事をするときに持ち込めるのかは要検討
論文を書くのではなく、ある知識をその組織の中で活かすならばSECIモデルなどが役立つだろう 個人の知識管理と組織内の知識管理をどうブリッジさせるのかが大きな問題となる
その意味でルーマンが提示したのは徹底的に個人の知識管理であり、PKMという略称は適切だが、そうやって語句を切り分けて終わりにするのではなく、個人と組織のブリッジングがどうデザインできるのかまで考えたい
論文執筆はその意味で、はじめから公共性が目指されていて、査読などによって協力者が出てくることが想定されるが、それがどう読まれ、どう使われるまでは著者ごとに判断が分かれるというところだろうか。
社会学という大きな枠組みの中で仕事をしている
いろいろなことが「社会学」の内部に入る
しかし、「戯曲を書く」というような仕事はしていない
一つの大きな土俵で仕事をしている
だからこそ一定の形式だけで仕事が達成できたとも言えそう
毎週提出する原稿の締め切りなどはあったのか?
この辺は参照した文献だけでは見えてきませんでした。でも、自由に研究を進め、まとまったら論文を書くという比較的おおらかな仕事をしていたような雰囲気は受けます(あくまで印象です)。
常に書くことを考えることの駆動力としていた
固定的な体系を持たない
というよりも、支配的な体系を持たない、というのがルーマンの思想からみて適切な表現だろう
支配的な体系のかわりに、機械的なナンバリングの体系と、柔軟な参照(索引)を併用する
そのためにカードには番号(連番・枝番)を振る必要がある
ルーマンはひとつのカードには一つのことを書くなどとその論文では述べていない
それを述べたのは梅棹だった。
ルーマンが別の場所で述べていたのか、それとも解釈者による意味付けなのか
着想をカードに書き留め、固有の番号をふる、というということをすれば、必然的にカードに書かれるものがどのようなまとまり(サイズ)になるのかは規定されるとは思う。
カードの並べかたが、カードの内容を要請する
そもそも何を「ひとつのこと」とするのかは恣意的なものであり、すくなくともそれを「理論」に組み込むことはできなさそう。
一方でカードのサイズは限られているのだから、自然とたくさんのことをずらずらとは書かないだろう。
そもそも、トピック・センテンスを書くことに慣れているならば(パラグラフ・ライティングに習熟しているなら)、あるまとまりで記述することはほとんど自然な手つきだっただろう。
ランダム性や驚きを重視していた
保存していて、必要になったら取り出して使う、というのではなくむしろ、そこに並んでいる情報(カード群)から「考える」ことを主要な目的としていた
フローチャートみたいなものを作れるかもしれませんね
「あなたは学術研究者か?」
「あなたは士業か?」
「あなたは組織内の知識労働者か?」
「あなたは在野で何かを学んでいる人か?」
おそらく最低でも以下の二つを考えないと、知識管理の適切なフローは設計できないでしょう
自分がこれから行おうとしている知識管理が、どういう領域で発揮されるものかを判断する
何があれば「成果」と言えるのか
その分野で必要な情報処理を検討する
どんな情報が必要か
どんなプロセスが必要か
たとえば会社員の人がいるとして、その人が自分が今ついている職種あるいはそれに関連する職種の知識を勉強していく場合と、その職種とはぜんぜん関係ない知識を(趣味として)勉強していく場合では、「アウトプット」などについての考え方がきっと変わってきます。
あと、自分はCosenseを使っているけど、会社のナレッジツールがNotion(や他のツール)の場合にどうするのか、というような現実的な問題もあります。なんでも自由にできる個人研究者とは大きな土俵が違うと考えた方がいいでしょう。場合によっては、二つのツールで情報を重複して持つことも必要になるかもしれません。
その点、「自分の趣味としての研究」という分野に限定するならば、個人の研究者と同じ枠組みで話すことができます。これは話す方にしたらラクチンな話です。
当たり前の話しですが「知識管理」というのも「何のための知識管理か」という文脈の設定があって、はじめて具体的な内容の検討ができます。
たとえば小説家の場合、ある小説を書くために資料を買いこんでたくさん勉強し、小説を書き終わったらそれらの資料はもう段ボールに入れてしまっておく、ということがぜんぜん可能です。Evergreenである必要はぜんぜんありません。だからといって、そのような営みが「知識管理」ではないというのは、あまりにも領域が狭い話になるでしょう(話をする方はラクチンですが)。
まとめると
個人(ひとり)で行う研究において、文献を読み、論文を書くというワークフローで、効果的に知識を管理していくために、ルーマンの方法は示唆に富む
ただしその「管理」は、知識を保存し必要に応じて呼び出すような保存装置ではなく、そこに保存されたものから「驚き」(比較・検証・検討)を経て、新しい考えを生み出していくような思考装置を使うという意味である。
必要なのは、読むことと並行して書くことを行うこと
そうして書いたものを、単純なツリーとは異なる概念で(ネットワーク的広がりを持って)並べること
そして常にそのネットワークを参照しながら、思考・研究を進めていくこと
その結果、かつての自分が考えたことと「対話」することができる(外部性の獲得)
会社組織内で働く知識労働者が(特に日本のそれが)まったく同じ方法でばっちりなのかは検討が必要
個人の知識管理と組織の知識管理のブリッジング
組織の知識管理が固定的な体系に元に行われている場合がある
他の人に理解できる形で知識を提供できないと成果とは呼べない
個人の趣味的な研究・勉強でもネットワーク型の情報整理は役立つが、適切な知識管理を行うためには一定の知的トレーニングを経ておく必要がある