「Chapter11 メモをとることは最高に学ぶことでもある」を読む
英語版では「Take Smart Notes」
rashita.icon本のタイトルに近しい章題
Chapter 11 メモをとることは最高に学ぶことでもある
優秀な人は、さまざまな問いを持ちながら読書している
「文脈を読む」とは、別の箇所とどうつながるか考えること
メモを書いていれば、驚くほど早くアウトプットできる
一日3枚メモをとれば十分
書くことは「写す」ことではなく「翻訳」すること
書くことではじめて、自分の主張を客観的に見ることができる
書いたものは、自分の思考そのもの
書くことで、はっきりと考えるための足場ができる
具体的なメモを見てみよう
メモには「なぜだろうか」という視点が大事
物を覚えるのに重要なのは、「記憶」ではなく「理解」
人は判断をするためにわざと「忘れて」いる
記憶で注目するべきは「想起記憶」
つながりを考えずに何かを覚えるのは意味がない
「思い出すきっかけ」を重視した方がたくさん覚えられる
覚えるために必要なのは「すでにある情報と結びつけること」
理解していることは努力しなくても覚えている
すぐれた学習者は、すぐれた教師にもなる
永久保存版のメモをツェッテルカステンに追加する
優秀な人は、さまざまな問いを持ちながら読書している
文献を読むことに経験が豊富な人は、さまざまな問いを念頭に読み、可能性のある他のアプローチに関連付けようとする
あるアプローチの限界を認識、テキストで言及されていない内容を見抜くことができる
経験の浅い読者(rashita.iconあくまで「文献を読む」という行為の読者)は、テキストに書かれた問いと主張の枠組みを鵜呑みにする
与えられた文脈を超えて考えることが科学的思考では大切
それ以上に問題(rashita.iconそれは何か?)なのが、テキストの情報を、それが属する大きな枠組みや主張を踏まえて解釈できないこと
博士課程の学生でも、テキストから文脈を切り離して引用を収集してしまうことがある
これでは本の実際の意味を理解するのはほとんど不可能
文脈を踏まえて理解しなければ、それを超えて考えたり、自分の情報の枠組みを見直したり、他の問いにとってそれがどのような意味があるかを考えることはできない
「文脈を読む」とは、別の箇所とどうつながるか考えること
以下が同じくらい重要だと教育心理学者カーティス・ロンカ
引用を収集するのではなく、テキストの主旨を短い説明で書き留める
それらのアイデアを処理すること
アイデアが別の文脈にあるアイデアとその本の中でどのようにつながるかをじっくり考え、著者が特に提示しているわけではない問いに情報を与えること
rashita.icon具体的にどういう処理なのか示してもらえると有り難いのだが
以上は、ツェッテルカステンに永久保存版のメモを追加するときにやることと同じ
私たちは頭のなかにあるアイデアをいじくり回すだけではなく、具体的な方法で処理します。他の思考の流れに照らしてどういう意味があるのか考えてから、それを紙にはっきり書き、他のメモと文字どおりつなげていきます。
メモを書いていれば、驚くほど早くアウトプットできる
アントニー・トロロープは毎日一定量の原稿を書いたが、本書が扱っているテキストは彼のようには書かない
執筆・読書・研究・思考・アイデアの吟味があるから
人がテキストの完成までに必要な時間を見積もると、過小評価しがち
rashita.iconルーマンとトロロープの「生産性」が比較されているが、サッカーと野球の得点数を比較するくらい無意味だろう
メモを増やせば、つながりの可能性が増して、シナジーが高まり、高い生産性が発揮される
rashita.iconどこかのビジネスツールの売り文句のようだ。それで、著者自身の論文の生産性はどうなっているのか
一日3枚メモをとれば十分
ルーマンは9万枚のカードを持っていた
一日6枚のメモを書いていただけ(ただし毎日)
ルーマンに貼りあおうとしないなら一日3枚のメモでも「妥当な期間中にアイデアを十分に蓄積」できそう
一年に一冊本を書き上げるだけで十分
rashita.icon一日3枚×365日→1095→これくらいあれば一冊本が書けるという想定か?
しかしツェッテルカステンは複利だと述べていたので、こういう単純な計算自体が成り立たないのではないか?
一日の原稿のページ数と比べると、一日に書くメモの数は設定しやすいゴール
rashita.iconこれは間違いない。一方で、小説家は小さい主張を重ねて論文を書くわけではないのだから、一日の原稿のページ数しか設定できない。これがわかっているならば、ルーマンとトロロープを比較してどうこう言うことはしないだろう。もしそれをしているならば、「原稿」というのは等しく同じものであるというアバウトな認識をしていることになる。
rashita.iconまたメモの目標は設定できるにしても、それは別に「原稿を書く」というプロジェクトをマネジメントすることは必要で、そこでの進捗管理に原稿のページ数を使うことは十分ありえるのではないか。
書くことは「写す」ことではなく「翻訳」すること
読書メモは自己テストとして機能するが、自分の考えを文章で表すことも同様の自己テストになりえる
書くことは、考えを整理する最善の方法である
自分の考えを書き表すときでも、それは「写す」ことではなく「翻訳」すること
書くことではじめて、自分の主張を客観的に見ることができる
一貫した主張を行うには、言葉が揺れていてはいけない。十分に一貫した言葉で書かれていてはじめて、主張を議論することができる
rashita.iconたしかにその通り
頭だけで考えていると、矛盾してもスルーしてしまうことが起こる。
文章にすると主張から心理的距離をとることができる。
既存のメモを意識して新しいメモを書くと、自分の記憶から利用できるものよりも多くの情報を考慮できるようになる
rashita.iconはたしてその数は人間が瞬間的に把握できる認知対象の上限を越えられるだろうか。もし超えられないとしたら、多くの「つながり」が見出されたとしても、それらを十全に活かせない可能性が出てくる
カーネンマン「脳は、"結論に飛びつく機械"」
書いたものは、自分の思考そのもの
ルーマン「書かない限り体系的に考えることはできない」
ファインマンはノートに書きながら考えたと、認識していた
書くことで、はっきりと考えるための足場ができる
外部に足場をつくることの重要性は皆共通している
おそらくプラトンが描くソクラテスは部分的に反対していただろう
ルーマン「何らかのかたちで違いに印をつけ、概念の区別を明示的あるいは暗黙的な形で常に把握しなければならない」
rashita.iconどういう文脈でこれが示されているのかが、この引用だけでは把握でいない
つながりが外部に固定されることではじめてモデルや理論として機能しはじめ、さらなる思考のための意味と連続性を与えるから、とルーマン
具体的なメモを見てみよう
ツェッテルカステンの文脈にアイデアを埋め込むときには、自分の思考の流れにそって、アイデアの重要性を書き込むこと
rashita.iconまた、意味が取りにくい文
とりあえず、メインのカードを書くというのは、「文脈にアイデアを埋め込む」行為だと(あるいはそれが一部として含まれる)と把握できる
『いつも「時間がない」あなたに──欠乏の行動経済学』を読んだ著者は、人間が欠乏を体験するととってしまう異様な行動とその理由についていくつかの文献メモをとった
これは、本の主張に着目して行う最初のステップ
著者の念頭にあったのは以下
この本は説得力があるか
どのような手法を使っているか
知っている参考文献はあるか
しかし、メインのカードの一枚目を書いたときに念頭にあったのは(rashita.iconつまり、最初に読んだときと、メインのカードを書いたときに時間的・心理的間隔が空いていることが示唆されているのだろう。わかりにくいけれども)、
これらすべては私自身の研究と、私の頭のなかやツェッテルカステンにある問いとどのようにかかわってくるのか?
最初のカードと次のカード
社会的不平等に関する分析には、欠乏の認知的影響を含めなければならない
rashita.iconテーゼ(主張)が書かれている
次のメモは「なぜだろうか」から始まった。つまり、上記のテーゼの理由を充填する内容。
二枚目のメモは、その理由が本の中に書いてあったとしても、それをそのまま書き写してはいけない。自分で考えて言葉にする必要がある。
rashita.iconこうして書かれたメモが、もともとの本の文脈を壊していない保証はどこにあるのだろうか。たいへん気になる。
メモには「なぜだろうか」という視点が大事
「なぜだろうか」という問いに答えることで、さらなる問いが出てくる
すでに議論されているのではないか?だとすれば誰が論じているか
そうでなければなぜ論じられていないか
これらの問いへの答えを見つけるためにはどこを観ればいいか?
rashita.iconこうした問いは、一定の知的訓練を経て出てくるもので、カードを書けば自然に出てくるものではない点に注意
問いに取り組む際、まっさきに確認するのはツェッテルカステン
ツェッテルカステンをめくっていくことで、アイデアが別のトピックにも寄与することを発見するかもしれない。
rashita.icon梅棹の「カードをくる」とまったく同じ
見つかったつながりをすぐに議論する必要はない。もっと研究や読書が必要。そのかわり、後で必要になったときに戻ってこられるように可能性のあるつながりを書き留めておいた方がよい
rashita.iconこれをどう書くのかを具体的に示して欲しい
物を覚えるのに重要なのは、「記憶」ではなく「理解」
アイデアをツェッテルカステンに入れると「思考が次のレベルに上昇する」
rashita.iconもうちょっと具体的な話をして欲しい
そのアイデアを忘れることもできる
ツェッテルカステンに入れるメモをとることが面倒だとしたら、自分でンお記憶と外部記憶装置への保存のどちらかを都度選択しなければならないのではないかと思っているから
rashita.icon本当にそうか?
そもそもそんな選択はおきない
ただメモをとり、ツェッテルカステンを使うだけで覚える必要があることは自然と覚えられる
「あなたは何もしなくていい」
rashita.iconメモをとり、ツェッテルカステンを使うということをしていると思うのだけども
あらゆることを記憶しておけるのが一番よいかもしれないが、覚えることと考えることは別の働き
rashita.icon本当に?
人は判断をするためにわざと「忘れて」いる
ソロモン・シュレンシェフスキー
ほとんどのことを覚えている→忘れるという機能の障害
忘却とは記憶の喪失ではなく、意識と長期記憶のあいだに築かれる心の障壁かもしれない
積極的阻害(心理学者 MacLeod, 2007)
記憶で注目するべきは「想起記憶」
保存強度と想起強度→想起強度が大切
ロバート・ビョークとエリザベス・ライゴン・ビョーク夫妻
保存強度
記憶を持続させる能力
想起強度
情報を思い出す際の速さ
脳の物理的容量だけを見れば、一生の詳しい経験を格納してもまだ余裕がある
rashita.iconこの挿話の文脈が不明
つながりを考えずに何かを覚えるのは意味がない
学習とは、ハードディスクに情報を保存するような行為ではなく、情報と情報のあいだにつながりをつくり、橋渡しをして、記憶を阻害することを避ける行為
rashita.icon「記憶を阻害することを避ける」が含まれているのかどうか
適切な手がかりによって、もっとも有用な情報を必要なタイミングで思い出すことができるように戦略的に考える
学習戦略では、保存強度の強化が重視されている。しかし保存強度は向上させようがない
rashita.iconどのような理由でさせようがないと主張されるのか。そもそも、夫妻の主張が事実であることを証明するのは難しいと述べているのに、それを前提に話を進めているのはなぜだろうか。
rashita.icon文章中では「保存強度」と鍵括弧つきの表記になっているので、かりにそういうものが想定できるとしたら、というようなニュアンスで読めばよいのだろうか
「思い出すきっかけ」を重視した方がたくさん覚えられる
連想強度に注目する
あらゆる情報が、別の情報を呼び出すためのきっかけになりえる
不随意記憶→『失われた時を求めて』
状況も記憶に付随する
習ったときと同じ状況を環境で繰り返しテストを行うと、学習がうまくいっていると過信してしまう恐れがある
rashita.iconこの挿話は何に関連して言及されているのか?
覚えるために必要なのは「すでにある情報と結びつけること」
真の有用な学習の役に立つのは、情報をできるだけ多くの文脈に結びつけること(意識的に)
こうしたつながりを意識的につくることは、互いにつながっていて、互いに手がかりになる、アイデアや事実の自立したネットワークをつくるということ。
rashita.icon「自立したネットワークをつくる」とは具体的に何を意味するのか。たとえば「自立していないネットワーク」なるものは概念的に成立するのか
学習とは詰め込みである、というのは誤解
理解していることは努力しなくても覚えている
文章を書くためには、詰め込んで覚える必要はない
参考文献などの情報はツェッテルカステンに保存されている
書くことの課題は、学習するよりも理解すること
rashita.iconこの「学習」はどういう意味で使われているのか。前項で学習とは詰め込みであることは誤解だと述べているのに、ここでの学習は詰め込みが想定されているように読める。誤解を訂正せずに、一般的な意味合いで述べているのだろうけども、話の流れとして違和感を覚える。
理解できれば、学習はできているはず
注意点
ものごとの意味は、必ずしも明確であるとは限らず、探求しなければならない場合もある
だからこそ、自分の言葉で説明する必要がある
そのための二ステップ
ある情報について、何かを書けるぐらい十分に考えること
他の文脈における意味も合わせて考えること
rashita.icon少し前に出た話が繰り返されているようにも思える。
すぐれた学習者は、すぐれた教師にもなる
正しく学習するとは、理解すること
rashita.iconどこかで著者における「学習」と「理解」の定義を整理しておいて欲しい
理解するとは、手持ちの知識に意味のある形でつなげること
rashita.iconでは、最初の「知識」はどのようにして獲得されるのか?つなげられる既存の知識がない状態で?
新たに学習した知識は、新たな情報につながる可能性がある
理解することに時間とエネルギーをついやせば、嫌でも学習するが、理解用とせずに覚えることに時間とエネルギーを費やすと、理解ができないだけでなく、学習もできない。これは蓄積する。
すぐれた科学者がすぐれた教師であることが多いのには理由がある
ファインマンにとっては、研究をしているか教えているかにかかわらず、理解がすべての本質となる
rashita.icon意味の取りにくい日本語
ファインマンダイアグラムは理解をやさしくするための図
メモを書き、ツェッテルカステンにしまっていくと、情報の深い意味を理解することができる
この情報にはどういう意味があるのか
既存の情報とどのようにつながるのか
既存の情報とどこが異なり、どこが類似しているのか
以上を自分の言葉で説明するための数々の問いに答えざるを得なくなる
ツェッテルカステンをトピック順に並べないことは、メモ動詞のつながりを積極的につくるための基本
学ぶことはたいてい、部品のように細切れになっていて、トピック別に整理され、分野によって分類され、概して他の情報から隔離されています。
rashita.icon「学ぶこと」が主語でよいのか。たとえば「教科書では」というならば納得できる。
秩序が整いすぎていると、かえって学習の妨げになる
意識的にバリエーションとコントラストをつくれば、学習が促進される
rashita.icon具体的にどういうことだろうか
トピック別に並べるのではなく、メモ同士の違いと類似性について自分の言葉で説明することで、学習が促進されるだけではなく、頭の中で賢く分類できる能力が伸びる可能性がある
rashita.icon「トピック別に並べる」ことと「自分の言葉で説明すること」は排他的な関係なのだろうか。自分の言葉で説明しつつ、それをトピックごとの箱に分けることは同時に成立するように思えるが。
永久保存版のメモをツェッテルカステンに追加する
以上が大切さの説明で、ようやく詳しい方法が紹介される
1. メモをツェッテルカステンに追加する。場所は、「直接関係あるメモの後ろ」か直接関わりのあるメモがなければ最後のメモの後ろ。
rashita.icon「最後」とは具体的にどの場所を指しているのか。
手書きの場合は、最後のメモに言える場合は連番を振り、直接関係あるメモの後ろなら枝番を振る
デジタルの場合は、他のメモの「後ろ」にメモを追加する
rashita.iconこの部分が極めて重要で、それをどう成し遂げるのか。
2. 新しいメモに関係する別のメモへのリンクを追加するか、またはすでに入っいるメモに新しいメモへのリンクを追加する
rashita.iconこれはよくわかる。デジタルノート一般で行われる所作であり、いくらかはツールの補助が機能する
3. 新しいメモは必ず、索引から見つけられるようにする
必要に応じて索引に項目を追加する
rashita.icon必要に応じて、というのはどういうことだろうか
あるいは索引につながっているメモからさらに参照する
rashita.icon整理すると、新しいメモを直接索引に書き込むか、索引に書き込まれているメモにリンクを追加するか、という理解で大丈夫だろうか
4. 一般化されたアイデアと事実の格子をつくりあげます
rashita.iconこれもふんわりとしたイメージは枠が、それができているかをテストする基準にはならない