嘔吐
#小説 サルトル
なんかにじの切り抜きで流れてきたので借りてきて今読んでる
ガチでおもしれ~~
ただただ自意識のひねくれと屈折
衒学的な詩性
戦後日本の文系大学生たちが実存主義ばっか読んでたみたいなのをより具体的に想像できる(これは小説だけど)
pp.21-22
大して言うべきことがあるわけではない。私は紙が拾えなかった。それだけのことだ。
私は栗の実や、古いぼろ切れや、とりわけ紙片を拾うのがとても好きだ。それを取り上げて、手でに ぎると気持がいい。子供たちのやるように、すんでのところで口に持っていきたくなるくらいだ。重々 しい立派な紙、だがおそらくは糞で汚れた紙の端を私が持ち上げると、アニーは怒りのあまり顔色を変 えるのだった。夏または秋の初めに、公園などで見つける太陽に焼かれた新聞の切れ端は、枯れ葉のよ うに乾いてかさかさになり、すっかり黄ばんで、まるでピクリン酸をかけたかのようだ。冬にはまた別 な紙片が、踏みつぶされ、細かくちぎられ、汚れて土に帰ろうとしている。ほかにも光沢さえある真新 しい真っ白な紙片が、まるで白鳥がとまったようにぴくぴくしているが、すでに大地は下側から鳥Ỉの ようにその紙片を捉えている。紙片は身をよじり、泥から身を引き離すが、少し先でまたべたりと決定 的に地面に貼りついてしまう。こういったものはみんな、手に取るのにふさわしい。私はときによると、 それをしげしげと眺めながら、ただ手でさわってみるだけにするが、またそれをびりびりと引き裂いて、 どんな音をたてるのかゆっくり聴いてみることもある。あるいはまた紙があまり湿っていると、火をつ けてみることもあるが、これはなかなかうまくいかない。それから私は泥だらけになった手のひらを、 塀か木の幹にこすりつける。
そんなわけで今日、私は兵営から出てくる一人の騎兵将校の黄褐色の長靴を眺めていたのだ。それを 目で追っていると、水たまりのわきに落ちている一枚の紙が見えた。私は将校が運で、紙を泥のなかに 押し潰すだろうと思った。ところが違った。彼は紙と水たまりをぴょんと跨いだのだ。私は近づいてみ た。それは罫のある、たぶん学校のノートの一ページを破ったものだろう。雨に濡れてよじれた紙は、火傷をした手のように、一面に皺や火ぶくれができていた。欄外の赤い線は変色して、薔薇色の湯気に なっている。ところどころでインクが流れ出していた。ページの下の方は泥に埋まって隠れている。私 は身を屈めた。やわらかく新鮮なこのペースト状のものが指の下で灰色の小さな球になって転がるだろ うと、早くもその感触を楽しみながら・・・・・。ところが私はそれができなかった。 私は一瞬、身体を曲げたままでいた。「書取。白い木英」という字が読めた。それから私は、何も取 らずに立ち上がった。私はもう自由ではない。自分のしたいことがもうできないのだ。
物、それが人にさわる、ということはないはずだろう。なぜなら物は生きていないから。人は物を使 用し、それをまたもとに戻す。人は物にかこまれて生きている。物は役に立つ。それ以上ではない。と ころが私には、物の方からさわりにくるのだ。それは耐え難い。私は物と接触するのを怖がっているの だ。まるで物が生きた動物であるかのように。
今や私には分かった。このあいだ海辺で例の小石を手にしていたときに感じたことを、私はもっとよ く思い出すことができる。それは一種の甘ったるいむかむかした気持だった。何とそれは不快なものだ ったか! それは小石から来ていた。間違いない。それは小石から私の手に伝わってきたのだ。そう、 それだ、まさしくそれだ。それは手のなかの一種の嘔吐感だった。
こういうちょっと自閉的・強迫的な執着ってものすごく見に覚えがあるからそれが急に変化したということの異変感が強烈