これがニーチェだ
pp.22-32
ニーチェの哲学は、そしてニーチェの哲学だけが、この問題にまつわるすべてを、解明し尽くしている。三つの点から、まずそれを簡単に見ておこう。第一に、この問いには答えがないことについて。第二に、答える人の嘘について。第三に、そこから生じる問題とニーチェの究極の答えについて。
まず第一に、この問いにはほんとうは答えがない。もし正直に答えたければ、究極的には理由はないが、「とにかく」殺してはいけないのだ、と答えるほかはないのだが、それは間う者を、すでに問うてしまった者を、けっして納得させない。そして、納得しないのが正しいのである。問うた若者は、少なくともそこに真正の問いがあることを直視できているという点で、誠実さと真理への意志において、大江健三郎よりも優位にあることを誇ってよい。そのように、この若者を勇気づける視点、これがニーチェを理解するための第一歩である(この答えのなさは一見「ニヒリズム」のように見えるかもしれないが、そうではなく、その逆である。答えがあると信じることが「ニヒリズム」なのである。本書の全体がそれを示すであろう)。この問いに不穏さを感じ取らずに、単純素朴に、そして理にのみ忠実に、答える方途を考えてみよう。相互性の原理に訴える途しかない。きみ自身やきみが愛する人が殺される場合を考えてみるべきだ。それが嫌なら、自分が殺す場合も同じことではないか、と。だが、この原理は、それ自体が道徳的原理であるがゆえに、究極的な説得力を持たない。
二つの応答の可能性が考えられる。一つは「私には愛する人などいないし、自分自身もいつ死んでもかまわないと思っている」という応答である。この応答に強い説得力があるのは、自分がいつ死んでもよいと思っている者に対して、いかなる倫理も無力であることを、それが教えてくれるからである。何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきものであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない。
考えられるもう一つの応答は、「私や私の愛する人が殺されるのは嫌だが、だからといってそれがどうして私が他人を殺してはいけない理由になるのかがわからない」というものである。これは相互性の原理それ自体を否定している。この応答にも説得力があるのは、われわれは常日頃、現に相互性の原理を否定して生きているからである。どうして殺人の場合だけが例外でありえようか。そして、この原理は、究極的には否定されるべきものてある、というのがニーチェの立場であると私は思う。これについては、第三の論点との関係で、すぐにまた述べる。
答える人の嘘について
この種の問いに対する反応がある独特の種類の〈嘘〉を生み出し、その結果、問いそのものが不穏な問いに変質させられてしまうことの意味を、ニーチェはするどく解明している。この領域こそ、他の道徳哲学者たちからは──カントやヘーゲルはもとよりホッブズやヒュームからも──けっして聞けない、他の人の追随をまったくゆるさない、ニーチェ独自の洞察が最も冴えわたる領域である。ごく若いころ、私が惹きつけられたニーチェの言葉は、いま思えば、すべてこの領域のものであった。この領域は、道徳の系譜学的考察において大展開がなされ、われわれの第一空間はそれを主題とすることになるが、ここてはそれ以前に、かつて私の心を捉えた彼の言葉のいくつかを、三つのグループにわけて紹介しておくこととしよう。
第一に、世の中のすべての言説道徳哲学や倫理学を含めて──は道徳性それ自体を問題として問うことそのものを禁じている。この奇妙な現実を、奇妙であると感じてよいのだとはっきり言ってくれたのは、ニーチェだけであった。「哲学者たちが『道徳の基礎づけ」と呼び、みずからにもそうであることを要求したものは、正しい光に照らしてみれば、単に現行の道徳に対する敬虔な信仰の一つの街学的な形態、その道徳を表現する一つの新しい手段、したがってまさに特定の道徳の内部における一つの事実、いや、それどころか、究極においてはこの道徳を問題として取り上げてよいということに対する一種の拒否にほかならなかった」(『善悪』一八六)。「こともあろうに道徳を批判する、道徳を問題とする、道徳に疑問をもつというそのことが、そもそも不道徳なことであったのではなかろうか、現在なおそうであるのではなかろうか」(『曙光』序言三)
第二に、ニーチェは、人が道徳に服従する根拠を他の誰もがなしえなかったほど正確に捉えている。「人が道徳に服従するのは道徳的であるからではない。──道徳への服従は君主への服従と同じく、奴隷根性からでも、虚栄心からでも、利己心からでも、断念からでも、狂信からでも(中略)ありうる。それ自体では、それらはなんら道徳的なことではない」(「曙光」九七)。「道徳的理想の勝利は、あらゆる勝利と同じ『不道徳な」手段によって得られる。すなわち、暴力、嘘、誹謗中傷、不公正によって」(一八八六年末——八七年春、7[六])
かつて私は、自分自身の内省と他の人々の観察によって、これらが正しいことは疑う余地がないと思った。いまも思っている。私はニーチェの哲学的洞察に感動し、哲学というものはほんとうにすばらしいと思った。それにしても、なぜ、他の人々は誰もこうした明白な真理を、口にしようとしなかったのか。いまもしないのか。──それは彼らが不道徳て恥知らずだからである。これがニーチェの答えてある。つまり、このようなことをあえて語るニーチェだけが(その道徳自身の基準に照らして)道徳的である、という逆説がここで成り立つ。
ところで、ニーチェはこうも言う。「道徳それ自体が不道徳の一つの特殊形態である。この洞察がもたらす大いなる解放。事物のうちから対立が取り除かれ、すべての出来事における同種性が救い出される」(一八八七年秋、9[一四○])。ここで「同種」と言われているものは「力への意志」である。すべては力への意志という同じ一つのものの現れである、とここでニーチェは言っているのである。
さて、このようなニーチェの視点からすれば、多くの子供たちが「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを立てないのは、誇りによってではなく、奴隷根性と断念によってであることは明白である。もちろん、「聖人」たちはその奴隷根性や断念や、虚栄心や利己心や臆病さを、誇り、尊厳、真の自由、・・・・・・といった言葉を用いて称賛する。その種の隠蔽工作がすなわち、「暴力、嘘、誹謗中傷、不公正」である。
道徳哲学者や倫理学者も同じである。彼らは「なぜ人を殺してはいけないのか」をはじめとする道徳の根拠の問題に答えようとするとき、結局、それは道徳に反するからだ、というトートロジーしか与えることができない。なぜ道徳的であるべきなのか、という問いに、その方が道徳的であるからだ、と答えることの無力さを感じている彼らは、そこに誇り、尊厳、真の自由、等々の嘘を忍び込ませるのである。
第三にしかし、この連関で私が最も感心したニーチェの発言は、次のようなものであった。「われわれの真理の基準はけっして道徳ではない。われわれはむしろ、ある主張が道徳によって根拠づけられたものであることを証明することによって、高尚な感情に駆り立てられたものであることを証明することによって、それを論駁するのである」(一八八八年春、15[七七])
つまり、誇りゆえに語られるようなことを、けっして信用してはならないのだ。このことは心に留めておくに値する。毎日の新聞を開けば、実例はいくらでも手に入るだろう。たとえば「いじめられる子の方も悪いところがある」という主張は語ることをほぼ禁じられている。ここで「悪い」というのは、固有の欠陥があるという意味だ。この命題は、たとえ真理だとしても、いじめで自殺に追い込まれた子の親に対して語るには、あまりに苛酷な、心優しくない真理、つまり不道徳な真理である。だからこれは真理ではなく誤認であるとされるのである。かくして、いじめられる子どもには共通の欠陥があるのではないかと問うことは、道徳的に禁じられるのである。
ニーチェの究極の答えについて
大江健三郎は、嘘と誹謗中傷によって、問う者の口を押さえつけようとしている。彼は多分、その行為の正しさに相当の自信を持っているにちがいない。そして、それは正しいのだ。「正しい」という言葉の正しい意味において、彼は正しい。一般的に言って、道徳的に正しい行為を、どのような観点から非難することができようか。どのような世の中も、この種の言説を、したがってこの種の言説の語り手を、つねに必ず必要としている。私もまた、時と場合に応じて、この種の語りを強いられる。だがじつは、そのとき語られることは〈嘘〉なのである。
なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」──だれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。
これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決して──少なくとも公的には──受け入れることができない見解であるかもしれない。しかし、それでもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか。少なくとも私にはそう感じられるのである。
社会の健全さ、いやそれどころか社会の存続それ自体と本質的に矛盾するような価値というものがある、と私は思っている。その視点を考慮に入れていない倫理はむなしい。だから、これまでのあらゆる倫理学説は本質的にむなしい。殺人という例が極端すぎるというなら、いじめの場合で考えよう。人生が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった子供が、あるとき友達をいじめることで、はじめて生の悦びを感じることができたとする。それはよいことだ、とは誰も言わない。だが、それでも、それはよいことなのではあるまいか。その子は、以前よりもよい人生を生きているのではあるまいか。共存の原理に反しているからといって、そのよろこびは偽物だとか、ほんとうのよろこびは友達と仲良くするところにあるのだ、といった道徳イデオロギーによって、その子を断罪すべきではないと私は思う。その子は、そういう言説が〈嘘〉であることを、身に染みて知っているはずなのだ。
もしその子供に対して、世の中が、つまり大人がなしうることがあるとすれば、それはむしろ政治的力量を身につける可能性を教えることだろう。自分の固有の生の悦びを社会の構成原理と矛盾しないものに(できるならその発展に役立つようなものに)鍛え上げるための政治的な力を身につけることを、教えるべきだろう。どんな奇異な悦びも、世の中と折り合いをつける道はどこかに残されている。その人がその悦びを世の中に認めさせることによって、世の中をよくする可能性さえある。それは、道徳的な力ではなく、むしろ政治的な力なのだ。
だが、もし彼がそのような力を身につけられなかった場合、それでもその生のあり方をそれ自体として、最終的に肯定するという視点、それこそがニーチェの視点であり、私が知る限りでは、ニーチェだけがはっきりと打ち出すことができた、かけがえのない視点である。このとき、相手の立場に立って考えるという、あらゆる道徳性の普遍的原理は、究極的には否定されることになるだろう。
つまり、反社会的な善というものがあるのだ。いや、あるどころではない。善とは、最終的・究極的には、反社会的なものなのである。だから、世の中のためになることをもって善とし、世の中に害を与えることをもって悪とする、これまでの倫理学説は、すでにひとつの倒錯なのではないか。煎じつめれば、これがニーチェの問いである。
この問いから発する彼の思索は、この世の中に語り継がれる公共の物語とはけっしてなりえないにしても、個々人の心の奥深くにはなぜだかこの世に生じてしまったひとつの無意味な偶然として自己自身をとらえることのできる個々人の心の奥深くには確実にとどくはずだ、とどくべきだ、と私は思う。
残る問題はただひとつ、そのようなことがはたして語りうることなのか、という点にある。そのようなことを、他人に向かって語り、伝えるということは、ことの本性上、した、不可能なことなのではあるまいか。そして伝わったときには、ニーチェは、の弱者たちを先導する新しい僧侶に変質せざるをえないのではあるまいか。これが私の問いである。
だが、話があまりにも進みすぎた。ニーチェの道徳批判にもどろう。
pp.42-45
宗教批判
力への意志という概念を形而上学的な原理の位置に祭り上げたことに問題があったのではないか。それはニーチェの本来の意図に反するのではないか。ニーチェはここでいわば「哲学」の真似事をしようとして失敗したのではないだろうか。彼は本来、ただ、一つのよき趣味を提示して見せれば、それでよかったのではないだろうか。それこそが強さであり、高貴さでもあるはずだったのではないだろうか。
ニーチェは、哲学の伝統を、道徳的価値を高尚なものにみせかけるためのくふうにすぎないとして批判した。「哲学史の全体を通じて知的誠実は存在しない。あるのはただ『善への愛』である」(一八八八年春、14[一〇九])。彼は「プラトン以来、ヨーロッパの哲学的建築家がそろって無駄な建築物を建ててきたのは何故だろうか」と問うて「すべての哲学者が道徳の誘惑に負けたからだ」と答えている。彼らの意図は、一見、確実性や真理の探求にあるように見えるが、じつは「荘厳な道徳的建築物」を建てることにしかなかったのだ(『曙光』序言)と。この批判は、相手の嘘を暴くという水準にある点で、本質的に健全な批判であると思う。だが、宗教批判をこれと同じ水準でおこなうことはできない。哲学には、いわば建前と本音の違いがあって、そこを突くことが批判になるのだが、宗教にはそれがないからだ。
ニーチェは「神とはひとつの憶測である」(『ツァラ』第二部「至福の島々で」)と言う。だがそれなら、神の不在もまたひとつの憶測であろう。原理的に憶測しかできないことがらについて断定するのは、それ自体形而上学的ではないか。神の存在の主張も、神の不在の主張も、形而上学的という点に変わりはない。存在するかしないか分からないものに「無」という名を与えるのは形而上学の最たるものだろう。もし神の存在を信じてそこから価値原理を導き出す生き方がニヒリズムなら、神の不在を信じてそこから価値原理を導き出す生き方も、同様にニヒリズムであろう。どちらも、われわれがけっして知ることのできない超越的な事柄についての憶断を生の究極的根拠とする生き方だからだ。ニーチェはまた、「どの宗教も不安と必要から生まれた」(『人間的』一一〇)とも言う。宗教的なものはすべて卑小で不健康な原料から作られている、と言うのだ。
このとき、彼の宗教批判にはまたもや二義性が忍び込む。一つは、神が存在するか否か、神の国が存在するか否か、彼岸の世界が存在するか否か、という対立である。このときキリスト教は、ほんとうは存在しない無を存在していると主張しているという理由で、その虚偽性が非難されている。もう一つは、そうしたものを設定する際の動機の不健康さに対する非難である。卑小で病的な動機から構築されたものだから虚偽なのか。虚偽だから卑小で病的な動機からしか構築できないのか。ニーチェの態度はどこまでも両義的である。教祖や僧侶の心性がどうあれ、神はやはり存在する、ということはありえないことなのだろうか。この問いに対するニーチェの答えは反実在論の哲学に拠るものとなるだろう。教祖や僧侶や信者の態度を離れて、神がほんとうに存在するか否か決定することはできない。それはちょうど、人間そっくりにふるまうロボットに心があるかどうかという間いは、われわれがそのロボットに対してどういう態度をとるかということと独立には決まらないのと同じことなのである。ほんとうは心があるかないかどちらかなのに、われわれの能力が足りなくてどちらだか分からないのではないのだ。そういう「ほんとう」そのものが、われわれの態度によって構成されるのである。神の存在とて同様であろう。どれほど神的な存在が顕現して数々の奇跡を引き起こしても、そいつを神と信じないことはどこまでもできる。神が存在することもしないことも、人間の態度を離れた客観的事実ではありえないのだ。
ニーチェはここで、実在論的観点の拒否と、反実在論的観点に立ったうえでの神の存在を信じる精神のあり方の否定とを、同時におこなっていると見なすことができる。人間そっくりのロボットの例との類比でいえば、心があるかないかどちらかの客観的事実があるという主張(実在論)をまず拒否したうえで、あるとする態度をとる者の心性を道徳的に非難している、ということにあたるであろう。だが、もしそうなら、反実在論的観点に立ったうえで、それを信じた方が自分にとって有益であるという理由で、神や天国の存在を信じるという選択肢があるはずだ。なぜ、そういう態度は拒否されるのか。
そういう信仰のあり方は、キリスト教道徳が育んだ誠実性に反するからである。むしろ神など存在しないと信じることこそが、キリスト教的に誠実な態度なのである。もし神がそのことで私を罰するとすれば、それはその神の道徳的位階が私より低いことの証左である。そんな神は、信じるに値しない。「おおツァラトゥストラよ。それほどの無信仰にもかかわらず、おまえは自分で信じているよりも敬度だ!おまえの内なるなんらかの神が、おまえを無神論者へと改宗させたのだ!おまえがもはや神を信じないようにさせているのは、おまえの敬虚さそのものではないか。おまえのあまりにも大きな誠実さは、おまえをさらに善悪の彼岸にまで連れ去ることだろう!」(『ツァラ』第四部「退職」)
p.196-
こっちが源流なのか?