5話 理由
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母の名前。
父親の名前。
通っていた学校。
18年間生きてきた、自らの歴史。
思い出そうとするごとに、一つ一つのエピソードが、記憶の襞からこぼれおちていく。
(頭が痛い。これ以上考えられない……)
強いストレスを受けると、脳は一時的に活動を止めると、いつか誰かに教えられた気がする。
こめかみを人差し指で押しながら、アスミは早々に匙を投げた。
もう少し気持ちが落ち着けば、きっと記憶は戻るだろう。
それよりも肝心なことを聞き出さなければ。
「健太郎は私を花嫁にするって言うの。どういうことなの?」
頬を染めながらアスミは尋ねた。
「言葉通りだよ。ラッキーでしょ?」
得意げな表情でそう言われ、アスミは唖然とした。
「ラッキーだなんて……どうしてそうなるのよ」
「あんなハンサムがいきなり目の前に降ってきたら、普通泣いて喜ぶでしょ」
しれっとした表情でラビは続ける。
「私は真面目に聞いてるの」
「じゃ、こっちも真面目に聞くけど、捕食されるのとどっちがいい?」
ラビの口からふとこぼれた、刺激的な言葉にアスミはぐっと息を呑む。
「捕食……」
「キミには健太郎に食われる覚悟があるの? その気になれば健太郎は、一瞬で君を八つ裂きにできるんだよ」
人として生きてきて、何かに食われる可能性があるだなんて、今まで1度も考えたことがなかった。
しかしこの世界では、あながちとっぴな話ではない。
(そうよ……崖の上のカラス……あいつらは私を食べるところだった……)
アスミは、ヒヒヒという不気味な笑い声と、死んだようなカラスの目を思い出した。
ラビは己の体を両手で抱きしめ、わざとらしくぶるっと震える。
「いろんな死に方があるけどさ、何かに食われて死ぬのって、最悪だと思わない? 少なくとも僕は嫌だ。だから頑張って知性を身につけた。弱くても知恵の力で生き延びていられるように」
アスミはまじまじと目の前にいるもふもふの体を眺めた。
二足歩行で言葉を器用に操っているものの、ラビは明らかにうさぎである。
食物連鎖では最下層にいるはずの彼だが、人を食ったような態度のせいか、ちっとも弱そうに見えない。
知恵の力で生き延びたという、彼の言葉が胸に迫る。
「死ぬよりはマシだなんて、一番卑怯な言い方だと思うわ」
アスミはわざと言及を避けた。
「選ばないアスミだって卑怯だと思うけど」
ああ言えばこう言うで埒が明かない。
「……食べられるほうがマシ……」
仕方なくアスミはそう答えた。
ラビはおかしそうにくつくつと笑った。
「ほんっとにアスミは嘘つきだな」
「私は……!」
「言い訳なんてしなくていいって。生きてたいって思うのは人として当然のことなのにさ……でもまあいいや。そういうことにしといてあげる。無理だけどね。健太郎は君を花嫁にするよ。彼は一度決めたことを覆さないから」
アスミはぐっと唇を噛む。
類は友を呼ぶと言うか、ラビは健太郎と同じく、謎掛けのような口を利く。
こんな言葉遊びに付き合っている暇はない。
「具体的に言えばどういうことをすればいいの?」
おずおずとアスミはそう尋ねた。
ここから逃げる勇気はない。
ならばできるだけ準備をして、迫りくる危機に備えたい。
「健太郎に任せておけばいいよ。きっといいようにしてくれるから」
「……」
不安げなアスミの肩をラビはぽんぽんと叩いて慰めた。
「どうして18年間も、君は閉じ込められていたと思う? どうして生贄にされたんだと思う? 君には霊的な能力があって、封印が解けるのが18の誕生日なんだ。君を花嫁にしたものは強力なパワーを手に入れる。食べれば永遠の命を手に入れられる……だけど18までに死んでしまえば、その原因を作った者は呪われる……健太郎は永遠の命を捨て、キミをお嫁さんにすると決めたんだ。だからきっと、とっても優しくしてくれるよ」
あっけなく欲しかった答えが与えられ、アスミは一瞬呆然とした。
(なんだ。そういうことだったんだ)
さっきまで高鳴っていた胸が落ち着きを取り戻し、入れ替わりのように、鋭い痛みがやってくる。
(利用価値があるから花嫁に……そうだよね……)
何を勘違いしていたんだろう。
ほんの少しでも自分を気に入ってくれたのかと、心を寄せられているのかと思った自分が馬鹿みたいだ。
胸はズキズキと痛んでいたが、同時に明るい光が見えてきた。
(健太郎は私が生贄の乙女だと信じ込んでいる。違うってわかったら、私への関心はなくなるわ)
健太郎に会ったらすべてを話そう。
自分は別な世界から来た人間だと。
そして開放してもらうのだ。
たった1人では生きていけないから、身の回りの世話をさせてもらってもいい。
そうやって時をやり過ごせば、そのうちいいアイデアが浮かぶだろう。
ラビはいたずらっぽく小首をかしげて「じゃ、脱いで」とアスミに言った。
「え……?」
アスミは思わず呆けたような声を上げた。
「早く脱いで。それとも僕が手伝ってあげようか?」
硬直しているアスミに、ラビは邪気のない表情で手を伸ばす。
「な、な、なんでそうなるの」
アスミは顔を真っ赤にして己の手で身体を抱きしめながら後じさった。
「もちろんお風呂できれいにするためだよ。髪の毛も体も泥と雨水に濡れてベトベトじゃないか。僕が隅から隅まで綺麗にしてあげる。そのためにスパを出したんだ。素敵でしょ。大理石でできたバスルームだよ」
アスミは顔を真っ赤にした。
うさぎとは言え、きっとラビは男の子だ。その前で裸になる勇気はない。
「お風呂なら1人で入れるわ」
「そっか。わかった。じゃあ後で迎えに来るね」
ラビはあっさりと引き下がり、ぴょんぴょん飛び跳ね、健太郎と同じ方角に立ち去ろうとした。
「ちょっと待って」
アスミは慌てて呼び止め、ラビはきょとんとした顔で振り返る。
「村の人たちが死んだのは私のせいだよね」
ラビはなぜかにっと笑った。
「どうかな。でも気にしなくていいよ」
スキップするような弾む足取りで、ラビは今度こそその場を立ち去った。
(……やっぱり否定しなかった)
アスミは大きなため息をつく。
自分のせいで誰かが死んで、気にしないなんてそんなの無理だ。
重い十字架が肩にズシリとのしかかる。
(ずっと背負い続けていくのだわ……生きていく限り)
アスミは心の中でそう思った。