六話 黒い影
ラビがいなくなると、アスミは白装束を脱ぎ、バスタブへと足を滑らせた。
温かいお湯の感触が、足首から身体全体へと広がっていく。
お湯に体を浸すのは久しぶりだった。
監禁生活ではそんな贅沢は許してもらえず、小用の時すらもお付きの者がついてきて、すぐそばで目を光らせていた。
自由を奪われることほど辛いことはない。
掘っ立て小屋に繋がれた一週間で、アスミはつくづく思い知った。
自由に手足を動かせる。好きな時に話すことができる。
状況は好転している。
とはいえ今も籠の鳥には違いない。
この先は望まぬ結婚まで待っている。
人殺しの、恐ろしいドラゴンに嫁ぐのだ。
アスミはため息を吐きながら肩口までお湯につかった。
なんて酷い運命なのだろう。
ラビがどんなにアスミを特別扱いしようと、元の世界のアスミはごくごく平凡な短大生だった。
何がどう間違って、生贄の乙女になどなってしまったのか……。
現実逃避のため、アスミはブクブクと顔をお湯の中に沈めた。
大理石の壁に、ヤシの木のアーチ。
目の前にはパラダイスのような世界が広がっている。
(実際は地獄と変わらないけれど……)
このままどこかに逃げようかと一瞬思い、しかしすぐに打ち消した。
逃げてもすぐに捕まってしまう。
健太郎もラビも空を飛ぶ。
敵うはずがない。
「ヒヒヒ」とどこからともなく聞き覚えのある声がした。
「え?」
と、何かが足に触れた。
視線を下方に向けると、股の間を黒い影がよぎるのが見えた。
(何……?)
確かめようとした瞬間、何者かがアスミの足を強く引っ張った。
思わず悲鳴を上げたが、アスミの華奢な体はお湯の中へと引きずり込まれ、たちまち呼吸ができなくなる。
「ん……んん……!」
両手足をばたつかせ、アスミは懸命に浮上を試みたが、ままならない。
さっきまでヒロインの膝は、浴槽の床についていた。
その床が今はなく、ヒロインの足をつかんだ何者かは、深い深い水の底へと引きずりこもうとする。
まるで湖に逆戻りしたみたいだ。
口から大量の酸素が吐き出され水面へと上がっていく。
鼻から熱い湯が入ってきて、耳の奥がキーンと音を立てる。
暴れながら浮上しようとするが、何者かは、しっかりとアスミの足を抱えて離さない。
(息が……できな……い……)
と、今度は別な強い力がアスミの腕を持って上方へと引っ張り上げた。
次の瞬間、アスミは湯船の上に顔を出していた。
ハアハアと大きな息を吐くアスミに、「大丈夫」と妙に落ち着いた声がかけられる。
目の前にいるのは金髪の男だ。着衣したまま湯につかり、アスミの体を支えている。
アスミは彼の肩口に思いっきりしがみついた。
「怖いかい? でももう平気さ。カラスはいないよ」
とても優しげな声だった。
「カラス?」
確かにヤツらの鳴き声を聞いた気がする。しかし足を引っ張ったのは、確かに人影だった。
「うん。君を食べに来たんだろう」
つややかな金髪が頬に触れる。素肌を晒していることにやっと気がつき、ヒロインは思わず頬を赤らめ、お姫様抱っこから逃れようとした。
「久しぶりなのに、もう離れようとするの? つれないなぁ」
男はそう言って笑いかける。背中に回った手はしっかりとヒロインを支えている。
この口ぶり、どうやら男は自分の知り合いらしい。こちらの世界に来てからの記憶が混濁している。
「誰……ですか?」
恐る恐る尋ねると、男は呆れたようにこう言った。
「君の婚約者だよ。忘れたの?」
「え……」
「魔法使いのジョファー。君の幼馴染だ」
「幼なじみ……?」
アスミは首をかしげた。
素っ裸で抱かれているままだが、気にしている場合ではない。
ジョファーは健太郎と違って、優しげだ。自分の話をちゃんと聞いてくれる気がする。
「私はずっと鎖で繋がれていたはずよ」
「それはほんの数日前からだろ。それまでは、僕達と一緒にいたじゃないか」
「……覚えてないの」
「頭でも打った?」
「そうじゃなくて」
自分はうさぎに誘われてやってきた、異世界への召喚者だと、魔法使いならわかってもらえるだろうか。
しかし、すぐに諦めた。肝心なのは、そういう話じゃない。
「私をどうするつもりなの?」
この男が何者なのか、アスミにはわからない。味方なのか、敵なのか。
竜たちとどういう関係なのかさえ。
ジョファーは神妙な顔で頷くと、ジョファーはヒロインを大理石の椅子にそっとおろした。
ふう、と息を一吹きすれば濡れた肌から水が弾け、ふわふわと宙を浮いてきた白装束が、頭の上で静止しストンと落ちる。
アスミはいそいそとそれを着た。たった布地一枚だが、肌が隠せる安心感はすごい。
「これを渡そうと思って」
そう言って差し出されたのは、ペンダントだった。柄に恐ろしげな蛇の彫り物がある。
「いつか君を迎えにくる。でも今はダメだ。竜達が警戒しているからね。だから、これを僕だと思って持っていて」
「え……?」
「タイミングが合えば、君を助けに来る。その前に居場所が分からなければ困るから」
「これだって見つかるわ。だって私、こんなもの、つけてなかったもの」
「じゃあ、見えないようにしておいてあげる」
さっと腕を一振りすれば、ペンダントは次第に透明になり、目の前から姿を消した。
「僕達は君を生贄なんかに差し出したりしない。君を使ってやつをおびき寄せ、殺そうとしただけだ。あいつにはさんざん苦しめられてきたからな。結局……負けてしまったけど」
そう聞いた瞬間、村が焼かれた時の光景が頭に広がった。
阿鼻叫喚と肉を焼かれる、なんとも言えない匂い。
「魔法の力は使えなかったの?」
「魔法は人殺しの道具じゃない。矢を射掛けたけど外れてしまった。僕のミスだよ。みんな死んだ」
ジョファーはアスミの手をそっと握った。
「僕がついてること、絶対に忘れないでね。アスミ」
こんな優しい言葉は久しぶりにかけられた気がする。
張り詰めていた心が、一気に緩み、嗚咽が口をついた。
「村がなくなったのは、私のせいよね。ごめんなさい」
ジョファーの目が一瞬大きく見開かれ、そしてすぐに柔らかなものへと変化した。
「何言ってんの、僕のせいだよ、君には何の罪もない」
「でも……!」
「何度でも言うよ、君には何の罪もない」
心の中に刺さっていた棘が抜けた気がする。
アスミは瞬きしながらジョファーを見た。
君のせいじゃないと誰かに言って欲しかった。起きた事実は何一つ変わらないが、救われた気がした。
そんな自分が、現金すぎて嫌になるが、本音だから仕方ない。
「一番悪いのはあの竜だ。あの暴君をこのままのさばらせていては、世界が全て滅ぼされてしまう。僕がなんとかする。それまで、従順な妻のふりをしているんだ。そしてあいつを油断させるどう? できる?」
(何とかするって……殺すってことだよね)
頭に浮かんだ刺激の強すぎるその二文字に、心臓がドキドキと震え始める。口にすることなどできなかった。ねっとりとした恐怖が足元から背中へと這い上がってくる。
しかし、すぐに考えるのをやめた。ジョファーは味方だ。もっと、たわいもないことを話していたい。
「僕は君のそばにいる。僕に逢いたくなったら名前を呼んで」
「待って」
「またね」
ジャファーの体が、ゆらゆらと揺れ始め目前から消えた。
アスミは大きなため息をついた。