集団的沸騰
授業での説明:3. 近代の宗教研究 (2):宗教を社会的なものとみる視点#68ecd006000000000077483f
「集団的沸騰」に関するデュルケームの説明(要約)(「宗教学Ⅰ」での説明ページ)
(参考:関係する記述のやや詳しい要約):さらに知りたい人のために
基本的に、山崎亮の翻訳にもとづき、部分的に引用者(遠藤)が省略などを施している。
オーストラリア社会の生活は、人々が小集団に分散して主に経済活動を行う時期と、人々が特定の地点に集合・密集して宗教的な儀式を執行する時期という、二つの異なる局面を交互に経過する。
これら二つの局面は対照的で、前者の生活は「完全に単調で、活気がなく、精彩を欠く」が、後者では人々の情動的かつ感情的な能力は、理性と意志の制御に完全には服さず、彼らはたやすく自制心を失う。
密集という事実はただそれだけで、並外れて強力な刺激として作用する。
集合することが、すぐさま彼らを並外れた高揚状態に移す。
表わされたそれぞれの感情は、外界の印象に開かれたこれらすべての意識のなかで、抵抗なく響き渡り、人の意識は他の意識に呼応しあい、当初の衝撃はこのような反響に応じて増幅されていく。
沸騰はしばしば、前代未聞の行為を導くにいたる。
情念は激しすぎて、何ものによっても押し止められない。
人びとは生活の日常的な諸条件のまったく外にあり、またこのことを強く意識しているので、日常的な道徳の外に、またそれを越えたところに身を置きたいという欲求を感じるようになり、実際、平常時の規則に反した行動をする。
このような高揚状態に達すると、人間は我を忘れてしまう(…)。
人は、通常時とは異なったふうに思考させ行動させる一種の外的な力によって支配され、導かれたように感じて、自分が自分ではなく、新たな存在になったように思う。
それが集団の各員に同様に生じ、彼らの感情はさまざまな態度で表に表されるので、各人は、ふだん生活している世界とはまったく異なる特別の世界、並外れて強度の諸力に満ちた環境へと現実的に移動させられたかのように、すべては推移する。
このような経験が、とりわけ何週間ものあいだ毎日くり返される場合には、それは、異質で相互に比較不能な二つの世界が現実に存在しているという確信を、彼に残さずにはいないだろう。
その一方は、彼がけだるく日々の生活を送っている世界であり、逆に彼は、熱狂にいたるまでの活気を与える非日常的な力とただちに関係することなしには、もう一方の世界に入ってゆくことはできない。
前者は俗なる世界であり、後者は聖なる事物の世界である。
「それゆえ、宗教的観念が生まれたのは、このように沸騰した社会的環境においてであり、またこの沸騰そのものからであるように思われる。」
潤曰、「ハロウィンや大晦日の渋谷は?」