AZYL!8(260320)
詩とは、既存のコードを逸脱する新規コードを人体に発見・上演させる装置である
/ 山本浩貴
「やる」とは何か?
・行為は意図によって規定されるのか?
・反復は「やる」を強化するのか、無化するのか?
詩とは何か?
・言語だけが詩なのか?
・行為は詩になりうるのか?
・疲労は詩的感覚を生むのか?
人間と機械の境界
・人間がプログラムを実行するとき、人間は機械か?
・機械が詩を生成するとき、機械は詩人か?
・その問い自体がナンセンスだとしたら?
アジールとは何か?
・物理的空間だけがアジールか?
・行為の中にアジールは生まれるか?
・疲労困憊の果てにある自由とは?
時間と記憶
・行為を反復することで時間は止まるのか?
・過去の記憶は現在の行為にどう宿るのか?
・モトコーという場所が消えた後、詩は残るのか?
運動の文法
ブライアン・キム・ステファンズの『The Dreamlife of Letters』は、文字の動きそのものに文法(grammar of motion)を見出す。例えば、「dread(恐怖)」から「drip(滴り)」へと変化する過程で、文字「d」が固定されたまま、他の文字が半円を描いて入れ替わり、「read」や「ream」といった単語を交互に形成する。この視覚的なパターンの運動は、単なる情報の伝達ではなく、単語間の意味的関係を物理的な動きによって「上演」しているのである。
この「運動による並置」は、読者に対して、文字を「読む」だけでなく、その「振る舞い」を注視することを強いる。電子詩における「書く空間」とは、ソースコード、画面上の表示、そして読者の操作が相互に変換され続ける「トランス・メディアルな空間」であり、そこでは詩は常に自己変容の過程にある。
実行としての読解と楽器としてのインターフェース
ストリックランドによれば、電子作品を読むという行為は、作品を「操作する」あるいは「演奏する」ことに近い。これはゲームに近い側面も持つが、むしろ楽器の演奏に近い能動性が求められる。例えば、ブライアン・キム・ステファンズの『The Dreamlife of Letters』は、文字が画面上を動的に運動することで意味を生成するが、これは単に文字が配置されているのではなく、コードによって文字が「上演」されている状態である。また、エドゥアルド・カッツのバイオ詩『Genesis』では、ウェブ上の閲覧者がボタンを押すことで細菌に実際の生物学的突然変異を引き起こすといった、現実の物理的変化を伴う「やる(doing)」が組み込まれている。
このような「遂行性」は、読者を単なる受動的な観察者から、作品を起動させる「オペレーター」へと変貌させる。ジェネラティブ(生成型)な作品においては、読者がプロセスを開始することで、作者自身も予測できない出力が生じることがある。ここでは、詩は完成された「静的な実体」ではなく、実行されるたびに異なる相貌を見せる「動的なイベント」として定義される。
パブリックドメインの詩人
チューリング完全の条件
「チューリング完全」とは、ある計算体系(プログラミング言語など)が、十分なメモリと時間があればあらゆる計算可能なアルゴリズムを実行できる能力を持っていることを指す。
制御構造
以下の3つの制御構造が備わっていれば、理論上あらゆる計算が可能になる。
・順次実行(Sequence): 命令を一つずつ順番に実行する仕組み。
・条件分岐(Selection): データの値や状態に応じて、次に実行するコードを選択する仕組み(例:if-then-else)。
・無制限の反復(Unbounded Iteration): 終了タイミングが事前に固定されていないループ、あるいは再帰呼び出しの仕組み(例:whileループ、recursion、またはGOTO)。
※単に「10回繰り返す」といった回数固定のループだけでは、チューリング完全にはならない。
チューリングの「6つの予約語(基本操作)」
・右(Right): ヘッドを右のマスへ移動させる。
・左(Left): ヘッドを左のマスへ移動させる。
・読み取り(Read/Scan): 現在のマスにある記号を識別する。
・書き込み(Write/Print): 現在のマスに記号を書き込む(または上書きする)。
・消去(Erase): 現在のマスの記号を消す。
・停止(Halt/Nothing): 何もせず、計算を終了させる。
https://youtu.be/EjlY6VkBRzY?si=-xCZqeLT8TfavXKP
…………
モトコーの停止と
チューリングマシンにおける停止性問題
「どんなチューリングマシン、あるいは同様な計算機構についても、それが有限時間で停止するかを判定できるアルゴリズム」は可能か、という問題。
そのようなアルゴリズムを実行できるチューリングマシンの存在を仮定すると「自身が停止するならば無限ループに陥って停止せず、停止しないならば停止する」ような別の構成が可能ということになり、矛盾となる。
→停止は事実するが、計算において、停止するかどうかは計算不可能であることを示し、そして、その計算不可能であることに、実行する余地(人間の領域、あるいはもっといえばエージェント(主体)の領域がある)
テクノロジーは人間と対立するものではない。人間の行為を補足したり解釈したりするためのものを超える。
テクノロジーと人間が渾然一体、あるいは誤解なきように、ぼくがいいたいのは機械と人間が一体になることを想像するような素朴なSF的なサイバネティクス(攻殻機動隊やエヴァンゲリオンのような)をいいたいわけではなく、そのような区別が曖昧となるような領域に、新しいものをみたい。それをとりあえずはエージェント(ある主体)と名をつけるが、もっといい名前があるかもしれない。しかし、そのようなエージェントの領域として、実行がある。
それは、機械でもなければ人間でもない。機械でもあり、人間でもありうるような?そこにこそ、人間の袋小路を突き破る思考のタネのようなものが、コンクリートを突き破る萌芽があるのではないか。
もっとも素朴にいえば
事実は停止する=モトコーは解体される
だが、人間は停止することはなく、続いていく。
物語はいずれ終わる。だが、人間の生活は続いていく。
そこに希望がある。
停止は計算不可能であることだが、なぜか停止するといわれ、実行したら終了してしまう?でも確かに、イベントは、終了するし、モトコーは停止(解体)される。
だが、人間の営みは停止していない。
わたしたちはまだ生きている
I am still alive.
この希望を
チューリングマシンの停止性問題から提出される、停止の計算不可能性と、人間の人生の継続性(?)=I am still aliveが重ね合わさっていく。
その重ね合わさった瞬間こそ、計算=実行が重なり合った瞬間である。
計算を、やる。
計算は、実際に実行される前の予測としてあるはずであって、だからこそ、実行そのもの、というより停止が、
実行=停止
計算不可能である、といわれるが
ここで飛躍をしよう
継続可能という事実なのである。
整理
イベントは「停止される」=モトコーは解体されるといわれる
では、それは計算可能か?
チューリングマシンによれば、計算不可能である。
なぜ停止される、と言われるのか?
それは、計算されたものなのか?
計算とスケジュールは違うのか?なんなのか?
イベントが停止=終了しても、人間のやるは継続する
逆に、停止が実行されることによって、停止される。解体される。
ある人間=行政、あるいはイベンターやパフォーマーが実行することによって、停止される。
金が尽きるから?疲労が蓄積されるから?
計算と実行を、重ね合わせて
計算=実行は不可能である
と導きだすことで、「停止するかどうかはわからない」という曖昧な状態=希望をもたらせないか?
このとき、事実とはなにも関係がない。
停止の計算不可能性という、曖昧さこそに身を浸すこと、主体を浸すことによって、希望を抽出する。
それはI am still aliveという希望
停止を否定することではない。
停止を引き受けたうえで、
なお継続を提示すること。
それが
I am still alive.
停止に抗うのではない。
停止を、通過する。
「事実は停止する。
しかし実行は止まらない。」
しかし、実行もまた事実ではないのか?
さあ、何が本当に対比されているのか?
確定された事実(宣言された停止)
生成し続ける事実(進行中の実行)
「時間のモード」が異なる
停止は「完了した事実」
モトコーは解体される。
イベントは終了する。
これは
日付が決まっている
スケジュール化されている
未来が固定されている
いわば「完了形の未来」。
まだ起きていないのに、
すでに過去形のように扱われている。
実行は「現在進行形の事実」
実行とは、
いま起きていること
まだ閉じていないこと
結果が確定していないこと
これは未完了。
つまり対比は:
完了形の事実
vs
未完了形の事実
停止性問題が示すのは:
「あるプログラムが停止するかどうかは、事前には一般に判定できない」
これは、
未来を完了形にできないということ。
でも行政的決定は、
未来を完了形にしてしまう。
解体される
終了する
ここに違和感がある。
なぜなら、
現実の出来事は常に未完了だから。
実行も事実だ。
では何が違うのか?
停止は:
事実を閉じる動き
実行は:
事実を開き続ける動き
どちらも事実だが、
一方は閉じる方向、
一方は開く方向。
停止するのは
建築
制度
プログラム
イベント枠組み
止まらないのは
行為
思考
生成
主体の動き
停止を通過するとは、
閉じた事実を
未完了の事実の流れの中に戻すこと。
私たちは停止という状態を
どうやって運動の中に包み込むか?
This program has halted.
This has stopped.
Nevertheless We are still running.
We are still alive.
重要なのは「温度」
これは政治的抵抗ではない。
これは
存在の持続
運動の確認
静かな通過
激情ではなく、粘度。
「停止宣言を何度も出す」
時間の途中でアナウンス:
いま停止しました。
しかし誰も止まらない。
しばらくしてまた:
いま完全に停止しました。
それでも誰かは続ける。
停止宣言は制度的。
実行は身体的。
オオカミ少年
オオカミ少年が、叫び続ける。
終了した。終了です。このイベントは終了です。モトコーは解体されます。やめろ!やめろ!解体だ!
妨害するも、
終わらない。実行しつづける。
オオカミ少年は信用されない。
3時間たったあと、形式としては終了する。
これは、終了か?
オオカミ少年がなお叫び続ける
終わりだ!終わりだ!解体だ!やめろ!
疑念がうまれる。
うまれるだろうか?
ほんとうに?生まれてほしい。
オオカミ少年が成就したと、捉えられるか?
停止宣言を無視し続けて、停止する。
みな、停止しているのに、オオカミ少年は、叫び続ける。
終わりだ!イベントをとめろ!解体だ!
ぷるぷるふるえる
停止するも、ぷるぷる震え続けている
これは、停止しているのか?
動いて実行されているのか、曖昧だ
停止と実行が重なり合っている
停止を通過するとは、「ぷるぷるふるえる」ことだ
モトコーの解体を前にして、「ぷるぷる震える」ことだ
それは怒りのようなものに見えるかもしれない。
怒りは、停止であり継起性であり、still aliveである
ある時点で、
全員が「動かない」。
でも完全静止ではなく、
かすかに震える
呼吸を荒くする
箒を小さく震わせる
遠目には停止。
近くで見ると振動。
観客は迷う:
止まっているのか? 動いているのか?
判定不能。
やる
やりつづける
やめない
ふるえる
ふるえながらやる
とまらずにとまる
命令ではなく、状態を書く。
テープには:
「ふるえよ」
とかかれて
アジール自体はイベントとしては終わる。
~~~~
コンセプト
「停止を通過する」
<アジール最後のイベント=モトコーの解体>(停止)
を通過する
コンセプトスタック
・(万能)チューリングマシンの「停止性問題」(計算不可能性)
・I am still alive.(事実の報告、おそらく希望、そして続いているということ)
・「ぷるぷるふるえる」という停止と実行の曖昧な領域
・やらない(停止)をやる(実行)
・掃除
ステートメント
「停止に抗うのではない。停止を、通過する。」
「This program has halted, and I am still alive.」
問題意識
「モトコーは解体される/アジール(イベント)は終了する」という事実
+
「人間の営み、思考、行為は続く(I am still alive.)」
→そしておそらくモトコーは解体されてもなお、続いていくだろうという、事実
(記憶の継承?弔い?祈り?)
停止してもなお、続いていく、あるいはやはり人間がいるかぎり続いていくのだ
このとき、停止と実行とが(飛躍の線で)繋がる
これを(万能)チューリングマシンの計算不可能性と、
<やる>(実行)の継起性とを重ね合わせ
停止=実行を通して、「停止を、通過する」
停止に抗うつもりはない。