締め切り力の神話
「締め切り力」という言葉があるkeroxp.icon2019/10/23
文筆や創作などにおいて
締め切りがあるから(追い詰められて)やる気が出る
締切がないから(だらけてしまって)やる気が出ない
という概念のようだ
プロから駆け出しの素人に至るまで、クリエイティブな作業に携わる人はこの「締め切り力」というのを信奉しているきらいがある
デッドラインがないと予定を立てたり計画をすすめることができないから自分をあえて追い込むという効果である
「締め切りがなければ何も生まれない」という人もいる
確かにそういうこともあるだろうし、とても才能があるのにサボりぐせがあったり、ものすごく勤勉だけど目を引く成果を出せない人もいる。またその逆もある。
そして僕はこの「何らかの締め切りを設定して自分を追い込む」という方式の創作論に懐疑的である
というのも僕自身10代後半から20代前半にかけてこの方法を信奉していたからだ
僕自身とてつもなくめんどくさがり屋な性格なので、長期的な計画などを立てるのが苦手である
で、そういう性質を自分でも把握していて、夢は大きいけどこのままじゃいけないという強迫観念に追われ、とにかくいろいろなことに挑戦するよう自分を追い込んでいた
2012年に小説を、2013年にイラストを、2016年に3DCGを始めたのも「アニメを作りたい」という目標に対してあまりにも自分が無力でありこのままでは何もできないという危機感からだった
そういう意味で2013年にはいくつかの同人誌のイベントに参加してみたりした
イベントに参加するのも当時の僕が締め切り力を信奉していたからで、「今何もできないけど締め切りさえあればなんとかなる」と思い込んでいたからだ
実際、僕は大学のレポートから同人誌や仕事に至るまで、今まで締め切りを破ったことはない
どんな締め切りでも必ず守り、当日には成果物を提出していた
小説や漫画を同人誌のイベントで出したときも、会社をやめてスマホゲームをリリースしたときも、自分で決めた締切を守り形にして世に出すことができた
これ自体は誇れることだと思っているし、「頭の中の名作よりも世に出した駄作」という言葉は正しいと思う
世の中には数え切れない数の「絵餅作家」が存在している
そういう人たちは、現代の潤沢でハイレベルな消費に慣れてしまったがゆえに想像と現実のギャップに耐えられず投げ出してしまう
僕はそういう人にとにかくはなりたくないと思っていた
なので逃げる場所を断つ、という意味でかつての僕は締め切り力を信奉していたのだが、ある時からそれを止めた
なぜか?
それは締め切りに追われて作り世に出したもののどれもが納得の行かない、未熟なものだったからだ
実際僕は自分の書いた漫画をヘロヘロになりながら入稿し、イベントで売ったりしたあとも一度たりともその本のページを開いたことはなかった
それはあまりにもひどい出来だと思ったし、あんなに苦労をして出来たのがこれかよ、という怒りが抑えられなかったからだ
それらを好意的に受け止めてくれる人もいたが、自分ではまったく納得が行かず恥ずかしさと後悔だけが残った
確かにそれらは締め切りがなければ生まれ得なかったものなのかもしれない
だが締め切りに追われた中で得たものは、ただただ苦しく早く開放されたいという気持ちと、激しく消耗した気力体力と、満足のいかず不出来な成果と、自分に対する大きな失望だけだった
こういったことを繰り返す中で、僕はどんどん作品を作ることが嫌になっていった
事実もう漫画も小説も書きたくなくなってしまった
逆に言えばさほど作りたくなかったものに気づけたということなのだが
僕はもう何年かすると30になるし、最近は目に見えて体力がなくなってきた
またこういう無理を重ねる中で何度も体を壊しかけたし、精神もすり減っていった
今振り返ると、こういう無理から得られたのは君子的な教訓だけであり、「あの苦労があったから今のオレがある」的なドキュメンタリー的展開は残念ながらなにも無い
精神的な成長は得られたが、クリエーターとしての技量は全く得られなかったと言っていい
その一方でまったく自分を追い込むことをせずひたすら成長を重ねてきたのがプログラミングである
僕はもともとプログラミングをやりたかったわけでもプログラマに憧れていたわけでもない
大学に入ってから授業ではじめてやり始めただけで、それを職業にするなんて思っていなかった
僕はプログラミングで粉骨砕身で努力したことも、激しく勉強したことも、自分を追い込んで作業に打ち込んだという意識をもったことがない
ただ気の向くままに大学、会社、プライベートでその時々興味のあるプログラムを楽しく書いていただけである
そうしたら時流も向いてきてプログラマは引く手あまたで給料もめっちゃ高いみたいな事になっていた
僕は自分にプログラミングの才能や資質があるとは思っていなかったけど、何も考えずに続けていたらいつの間にかライバルみたいな人はいなくなって、自分より優れたプログラマを見つけるのにも苦労するようになってしまった
これが自分からしても本当に不思議なことで、あれだけ苛烈に自分を追い込んで努力したことで全く成果が出ず、片手間のゲームのようにやっていたプログラミングがこれだけ自分の価値を占めるとは予想もしなかった
こういう経験から今の僕は「締め切り力」を信じていない
はっきり言って、自分の性向や資質は自分ではどうにもすることはできないと思う
自分が本当に向いていること、得意なことは本当にギフトで、奇しくも自分では選べないようだ
それは悲しいことでもあるような気がするけど、救いのある話でもあるような気がする
人が楽しさを感じることはそう多くは無いはずで、それは人それぞれ異なっていると思う
なので自分が楽しく生きやすいように動くと物事も意外とうまくいくような気がする
逆に社会的通念的な価値をベースに自分を向いていない方向に変えようとすると、大概うまく行かず辛くなる
とにかくお金がほしいとか有名になりたいとかステータスを得たいとか
こういう誰もが欲しがるわかりやすい指標は短期間で獲得するのが非常に難しいし、それと引き換えに失う大切なものも多いので自分にとって何が大事か、何がいいものなのかを見極めるべきだと
こういう境地に至った今の僕が思っているのは、人生は長距離走という考え方
「自分を追い込むことで得られる創造性には限度があり、それは非常に若いうちにしか通用しない」
砂漠で雨を待つように締め切りを設けてみても、いつか雨が降らなくなる日が来たらどうするのか?
そうなったとき、そういう術しか持たない作家はどうするのか?
村上春樹は「小説を書くのは難しくないが、書き続けられる人は非常に少ない」とも言っている
彼自身が40年間小説を出し続けてしかもヒットし続けているのはやっぱりものすごいことだと思う
村上春樹は小説を書きたいときにしか書かないそうだ
書きたい(=書くべきものが自分の中から湧き出てくる状態)ときでないときは無理をして書かない
これが創作の理想形だと思う
職業作家である以上そういうことができる人は少ないとは思うが、「長く活動を続ける」ということにフォーカスしたらこれ以外に方法は無いのではないかと僕は思っている
どんなに才能があっても作りたい気持ちが湧かないときは、あるったらある
そういうときは無理せず淡々とした作業をすればいいんじゃないかという
黒羽のアリカを出して燃え尽きた2017年以降、僕は自分で作るものに締め切りを設けたり追い込んだことはない 自分を追い込まずに湧き出てくるものを淡々と加工したらどうなるのか、をYATTEIる
長く活動してそのうち何かがブレイクするだろうという楽観主義を持つようにしている
よく期限を決めないと何も出来ないという人がいるけど、そういう人は一発の打ち上げ花火を上げようと目論んでいるので、例え期限があっても大した成果を上げられない思う。一発は当てようと思って当てられるものではないから。
本当に優れた才能は時間を味方につけるし、気持ちひとつで大きな成果を得られるなら世の中は成功者で溢れていないとおかしい
僕は作ることをやめないので、これから長い時間いろいろなものを作り続けるにあたって、どう長距離を走っていくかを今はよく考えています
最近は相変わらずめちゃくちゃプログラミング熱が高く、それを補うように音楽づくりもやっていく感じっす