311の記憶
2022/3/11
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(2011年3月11日14時46分ごろ、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスメディアセンター2階で避難中に筆者が撮影)
今日、2022年3月11日14時45分。図書館にいた。今日が3月11日だということは、忘れていた。
のどやかな春の日の午後、防災無線で東日本大震災を告げるアナウンスが流れ、僕も黙祷を捧げた。
図書館の中は平時でもとても静かなのだけど、その1分間は特別な静寂があった。皆黙祷を捧げていたように思う。
11年前のこの日も図書館にいた。当時僕は大学1年で、友達と一緒に雑誌を作るため大学のメディアセンターで打ち合わせをしていた。印刷所との入稿調整やインタビューの文字起こしなど、やることは山積みで、相棒の友達と一緒に春休みだというのに毎日大学に籠っていた。
14時45分。大きな揺れがあった。地震というのはすぐに気がついたけど、第二波で途轍もない揺れが建物を襲った瞬間、誰ともなく「これ、やばい!」と声が上がった。パーティションで区切られた会議スペースには僕たちの他にも学生が居て、様々な作業を行なっている途中だった。
僕たちは咄嗟に机の下に隠れ、揺れが治るのを待った。すぐに非常時を告げる警報が鳴り始め、スペースの外、書架のエリアからはバラバラという多くの鳥が飛び立つような音が聞こえた。それは書架の本が地震の揺れで床に次々と落下していく音だった。
膨大な蔵書数を誇る大学の図書館の物々しい厚さの本が、粉を振るように落とされ、瞬く間に海を作った。
たくさんの本があることを表す月並みな比喩表現としての「本の海」という言葉は、その時に限って比喩ではなかった。床に堆く降り積もった本は、文字通り人を寄せ付けない物理的な障壁として、僕らの前に姿を現した。それは、人間の知識の結晶が、逆らえない大自然の力によって、単なる物体に還元されていく光景だった。
揺れが収まり、司書の人たちによる避難のアナウンスが流れるのを聞いて、僕たちは部屋を出て非常階段に向かった。非常時に非常階段を使うのは生まれて初めての経験だった。僕が被災した場所は、しっかりとした耐震構造で造られた大きな建物で、2階という低層階、机と椅子以外のインテリアがない会議スペース、そしてすぐ隣に非常階段があるという要素に恵まれた、幸運な立地だった。
そのおかげで、僕たちはすぐに非常階段を駆け下り、キャンパスに脱出することができた。春休みで人手の少ない大学とはいえ、教員や職員、様々な活動をしている学生たちなどがそぞろ正門前の広場に集まり、何をするでもなく皆混沌としていた。ぽかぽかとしたとしか言いようがない春の日差しだけが、その場を一層異質なものにしていた。
それから1時間ほど何も進展はなかったが、大きな地震が東北で起きたということだけはネットで知った。大学側からアナウンスがあり、徒歩で帰宅できるものはそうし、そうでないものは体育館に泊まれという内容だった。僕らは仕方なく藤沢市遠藤の田園地帯をとぼとぼと歩いた。日はいつものように畑を照らし、鳥はもう地震のことを忘れたように鳴いていた。電気の止まったコンビニの自動ドアが開きっぱなしになり、レジには長蛇の列ができていた。僕らは物資を買うことを諦め、一番近所に住んでいた相棒の家に身を寄せ、夜を明かした。
僕らが広場でがやがやとしていたあの時、まだ津波は東北地方に到達していなかった。のちに失われる事になる命は、まだこの世界に存在していた。僕らはそんなことを知る由もなく、11年後の今日のようによく晴れた、穏やかな春の空を見上げていた。
僕らのいたあの場所まで、津波は届かなかった。だから僕らの命は続いた。結果としては、ただそれだけのことだった。
あれから11年経った。19歳だった僕は30歳になった。世界はどんどんおかしくなっている。
時間や記憶という概念を持たない自然の営みとは別に、それらを積み重ねて前に進んできたはずの人間は、時計の針をぐるぐると左向きに戻しているようだ。みな正気を失いつつある。僕たちの両親や祖父母たちが100年かけて積み上げてきた、善なるもの、悪なるものというふたつの石の塔は、がらがらと音を立てて崩れ落ち、今や地面の上で見分けがつかないほど混ざり合ってしまった。
おいおい、エヴァンゲリオンの世界じゃないんだぜ。なんだよ、いつの間にかこんなことになっちまってさあ。
この10年でインターネットはこの星を覆い尽くしてしまった。それらはもう断絶された人々を繋ぎ合わせる道などではなく、僕らを締め付けて逃がさない強固な網になった。「人間なのだから」ネットやコンピュータは使いこなせて当然だという理屈が、まかり通るようになった。ネットは、新しい物好きの好事家たちが、日夜コソコソと集まって楽しむようなものではもはやなくなってしまったのだ。いや、そんな時代なんかなかったよと言われたら、どうしようもないのだけど。
YouTubeのニュースで、ロシア軍の攻撃を受けたチェルノブイリ原発が電源を喪失して大変だと言っていた。
ああそう。またそうなるんだ。まあ戦争も原発も、爆発しないと何も分からないもんな。人間は。
黙祷を捧げた一分間、近所の中学校から聞こえていた吹奏楽部の練習の音が止んだ。
彼らが生まれたのは2006年から2009年だ。まだ彼らも311の記憶を持っている。だが数年後にはそれもなくなる。
ふたつの震災を知らない子供たちが大人になり、やがて僕らと机を並べて仕事をすることになる。
いや、もうそんなことないのかな?
2020年に生きていた人間は須くこのクソッタレな世界を呪うだろう。1945年に生きていた人間がそうしたように。
だけど僕らは生きるしかない。今のところお金だけが生命を繋ぎ止める有効なシステムだから、そのゲームには乗るしかない。
本当か? 僕らはこんな世界を見るために頑張って生きてきたのか? そしてこれからも?
『後の世代の面倒を見られなくなったら終わりだろ』と、ある漫画に書いてあった。
そうだよ。終わりだよ。あるいは僕らは彼らから石を投げられ、吊し上げられ、こんなことになった責任を断頭台で追求されるのだろうか?
だけどそれも大変そうだよな。そんなことをする君たちの人数は、一体僕らの何分の一になるんだ? まあ、科学の発展を持ってすれば、そんなこと関係ないのかもしれないけど。
『生き残った人間には、死んでいった人間の分も生きる責任がある』これも何かの漫画のセリフだ。
読んだときは全く実感できなかったけど、今大人になってようやく分かる。そうだな、その通りだと思うよ。
1995年や2011年は、まだ局所的な悲劇の記憶として、世界そのもののネジを外し切ることはなかったと思う。
だけど2020年は、1945年以来なんとか騙し誤魔化し皆で外れないように締めてきたネジが吹き飛んでしまった実感がある。
だからこそ。
僕らはまたそのネジを閉め直さなくてはいけない責任を持った世代なんだろうなと思う。
望むと望まずとに関わらず、たまたまその場に居合わせた人間として、これから生まれてくる命に対しての責任を負っている。
それは、この半世紀世界を動かしてきた「個人がお金を沢山稼げば結果的にみんな幸せになるよ」という新自由主義・個人主義への明確なアンチテーゼであり、僕らがネットの発展とともに失ってきた人間中心主義への回帰であると思っている。
僕らはこの10年、あまりにも多くのことを失いすぎた。そしてその対価として、実体経済としての世界は莫大な成長を遂げた。
冒頭の写真を撮ったのは、大学入学記念に買ったiPhone3Gだ。今はiPhone11を使っている。つい昨日、iPhone13を買った。
ああでも、ロシアの人はもうこれ買えないんだよなあ。
GoogleもマクドもVISAもスタバもWindowsも使えないしW杯にも出られないんだって。かわいそう。
…………。
あれ? こんななんだっけ? 僕らの目指していた世界って、こういうもんなんだっけ?
そうだよ。君が頑張って勉強して身につけた知識と、それで稼いだお金が、世界をこんな風にしたんだよ。
だからそんな素晴らしい世界を壊す国なんか、壊しちゃえばいいんだよ。
違う。
僕はそうだとは思わない。何かが間違っている。明らかに人は今、いつかと同じ間違いを犯そうとしている。
それが具体的にいつだったか? うーん、ありすぎてわかんないなあ。とりええず適当に世界史の教科書開いてみたら?
個人が国家の戦争を止められる? 遠い土地で無慈悲に失われる命を救える?
無理だ。無理なんだよ。やめとけ。そんなこと本気で思ったら、もっと悲惨なことになるぞ。
そんなことを起こしている国家だって、個人の集まりでしかないんだ。
人は集まりすぎると、おかしくなってしまうんだ。よくわかんないけど。
じゃあやっぱり個人は国家の前では無力で、何もせず耳と目を閉じ静かに暮らすべきなのか?
違う。
少なくともまだ、僕たちは土俵を割ってはいない。生きてるんだから。なあ、そうだろ?
11年前のあの日、あるいはこの2年間に失われた命に対する責任が、僕たちにはある。
僕は、僕が楽しく生きることに力を注ぐことで、他の人を幸せにできると信じている。
そこではお金の多寡や、所属や、肩書きなんてどうだっていいんだ。人間なんだから。
なあみんな、もっと楽しく生きようぜ。そうだ、俺とゲームをしようぜ。
でもとりあえずはお金を稼いでから集合ーーってことには、なるんだけど。
…………。
11年前の3月11日に目にした本の海は、もうない。本は本として、知識の結晶として、収まるべき書架に収まっている。
これからもずっとそうだといいな。本が本でなく、知識が知識でなくなった世界にならないといいな。
そして願わくば、僕の知識もその中でずっと生き続けられたらいいなーーと思う。
だから僕は、これから沢山の文章を書くことに決めた。これはそういう物語りです。
了