判官贔屓とキューバ革命
日本の物語文化として「判官贔屓」というものがある
判官とは九郎判官義経、つまり源義経のことであり、「負けそうな方に感情移入してしまう」という価値観である
興味のないチーム同士のスポーツの試合を見ていても、とりあえず負けている方に立って見ると少しだけ面白くなる、そういうことである
義経は兄の頼朝と共に時の最大勢力であった平家を打倒して鎌倉幕府を建立した人物だが、後世に書かれた物語では明らかに頼朝よりも美しく描かれがちである
歴史的に見れば、鎌倉幕府建立までと以後の頼朝の業績もたくさんあるのだが、義経が活躍した合戦の時代と比較するとどうもパッとしない
一方で義経は幼少期から屋島や壇ノ浦での活躍、武蔵坊弁慶との安宅の関での逸話、そして最後には兄に討たれるという物語性
これらが素晴らしくよく出来ているので大抵の人はこちらの方を好きになるだろう
もちろんそういう贔屓が幾重にも積み重なって現代の判官贔屓的物語は生まれたわけだが、この「負けそうな方を応援する」という感情はどこから来るのだろうか?
義経はよく出来た歴史上の悲劇のヒーローだが、頼朝は武士でありながら征服者、政治家に成り上がったというリアリストでもあった
頼朝はそれまでの朝廷と天皇をトップとした政治システムから、武家のトップが国の実権を握るという幕府・征夷大将軍というシステムを実現させた革命家でもあり、良くも悪くもその後の戦国時代と江戸幕府建立の起点となった人物である
いち武士のまま亡くなった義経と、革命ののち政治家となった頼朝のどちらが歴史的に重要な人物だったか
それはそれが書かれた書物が物語か歴史書かのどちらかで分かれるだろう
hr.icon
義経と頼朝、そして判官贔屓が現れる似た例として、革命家のエルネスト・ゲバラとフィデル・カストロの二人が挙げられる
ゲバラとカストロは共にキューバ革命を起こした革命家だが、革命後の二人の去就は対照的である
1959年のキューバ革命達成時、ゲバラは29歳、カストロは33歳という若さであった
カストロは革命後キューバの共産党のトップになり、アメリカによる経済制裁とCIAの暗殺工作を掻い潜りながら、政治家として2016年まで57年もの間キューバを統治した
カストロは独裁者だったと言われることもあるが、20世紀に社会主義革命で出来た国家の中でキューバは最も正常に続いている国家の1つであることは事実である
一方ゲバラは革命後、カストロと共に政治家となったがすぐにキューバを離れアフリカのコンゴへ渡り、現地のゲリラを指揮し再び革命を目指したが、8年後の1967年にゲリラ戦の中なか戦死した
革命後、その熱狂から上手く抜け出せずに理想主義に生きて死んだゲバラと、熱狂から抜け出して現実に徹して生き続けたカストロは、革命という理想主義と現実主義の境界面を挟んで背を向けあったのである
革命家が生きたまま優れた政治家になることは歴史的にほとんどなく、国は革命後に生まれた優れた政治家によって発展していく
ゲバラの戦いを描いた作品は世界中にたくさんあるが、革命後のカストロの政治的手腕を知る人は少ない
hr.icon
判官贔屓とは物語の構造でもあり、人間が備え持った快楽原則のひとつなのだと思う
生物の本質は生存ゲームであり、人間は特定のルール下で勝利を収めることに快楽を感じるように出来ている
ゲームは勝っているときは気持ちいいが、ゲームが続いている間は「いつ負けるのか」と不安が高まっていく
将棋や囲碁でも、大熱戦の後疲弊しているのは勝った方である
負けている方は逆転の望みがある分気持ちが楽だが、勝っている方は最初から負けるよりも遥かにダメージが大きい
そして社会の大抵の場面で「最初から勝っている」人は殆どいないので、感情的には「負けている」状態から始まるのが普通である
最初からピラミッド構造のトップにいなければまずひとつ上のランクの人間に負けているので、これをなんとか前向きに考えるための思考が判官贔屓なのではないか
負けている方に感情移入してしまうのは、まず「自分が負けている」という刷り込みがあり、負けている他人が勝利することで自分も勝利することができるという思考を持てるからである
逆に、負けている方が常に負けるという光景を見せ続けられた人間はおそらく極端に貪欲になるか無気力になるかのどちらかだろう
義経やゲバラが物語で美しく描かれるのは、彼らが若くして理想主義のさなかに亡くなったからである
彼らは確かに何かに負けたので死んでいるのだが、革命の熱狂の中に死ぬことは、革命の後の現実に生きることに「勝った」のかもしれない
hr.icon
現代では中途半端に経済的豊かさが手に入った代償として、幸福の在り処が精神的な部分に依りがちである
殆どの人は「アガり方」がわからないので、「負けている」状態から抜け出すことが出来ない
そもそも「負けていない状態」を定義することすら出来ない
一方で、フィクションの世界では物語を回しやすくするために主人公は明らかな「負けている」状態から始まる
負けている状態が明らかなので、アガり方も明らかである
なので読んでいる方の考え方も単純になり、どうすればいいのかがわかりやすい
そういう目標が明らかな負けている状態が判官贔屓の本質なのである
判官贔屓の状態では、結果がどうあれ目的が明らかであること自体が気持ちがいいので、それは逆に言えば勝っている状態よりも良い状態である
革命で重要なのは革命の後にどのような国を作るかであるが、革命家は革命の達成を勝利と定義してしまうので、その後の勝利の定義をすることができない
現実の生活において自分が勝っているのか負けているのかを明らかに確認できることは少ない
自分の頭の後ろにランクが表示されていて、その値はずっと変わり続けているのに自分はそれを知ることが出来ない
本当はそんなものは無いのだが、もしあったとしたらと考えると居ても立っても居られない
義経と頼朝、ゲバラとカストロ、果たして我々が贔屓すべきはどちらなのだろうか?