何人かよく分からない
OSSの開発に参加していると、当然仲間となるのはほぼ外国人の人達なわけである
Denoには幾人かの日本人コントリビュータもいるのだが、コアのイシューやPRで一緒になることは実はあまりない いくらOSSとは言えどインターネットの向こうにいる人間が何者なのかは気になるのが人間の性である
とりあえずGithubページにいきGoogleでハンドルネームや名前をググるのは当たり前
大抵の場合Githubのプロフィールを読めばなんとなくは分かるのだが、自分が一番気になるのはその人が何人か?ということだったりする
そこにポジティブな理由もネガティブな理由もなく、単に自分はどこの国の人間と関わっているのか?ということに興味が湧いてしまうのである
なにしろ自分は母語を喋ってないわけなので向こうの人もまた哀しき人の可能性もあるからだ
実はコロナウィルスの影響で頒布延期になってしまった/dneo-ja/Denobook03に「Denoコントリビューター列伝」という、Denoのコアコントリビューターの人たちを(勝手に)紹介するという記事を書いたのだが、その過程で自分の心境に変化があった というのは、GithubのプロフィールにはLocation(居住地)はあれど国籍(Nationality)の欄はないのである
それについて自分は深く考えたことがなかったが、色々な人のプロフィールを見るうちにその理由がよくわかった
つまりそれは、現代においては国籍と居住地には関係ない場合が結構多いということだ
アメリカなどはその典型で、各国のエリートが集まって働いているIT業界では国籍を尋ねることは無意味とも言える
特にアメリカ国外に住んでいる僕のような人間にとっては、バンクーバー出身の中国国籍の人がサンフランシスコに住んでいたとしても、その人が「何人」なのかということを理解することは難しいし、また無意味でもある
国籍や出自は確かにソリッドなアイデンティティであり、不可避的に色々な社会的意味を持つ
それゆえにそれについて誇りを持ったりあるいは忌避したり、無頓着だったりする
自分への、あるいは他人へのそういったレッテルがやがて差別を生むようになるわけだ
一方、居住地はそれと似たような情報を提供しつつもニュートラルな意味を持つ
なぜなら国籍や出自は自分では簡単に選べないが、居住地は自分の意思で簡単にに変えられる
それに加えて住む場所というのはその人の生活的価値観が強く現れると僕は思う
国籍と居住国は大抵の場合は一致するが、そうでない場合でも「どこに住んでいるか」ということは国籍よりも遥かにその人の人となりにとってニュートラルな意味を持つ情報なのではないだろうか
そこには確かにその人の意思が存在しているように感じる。正確な意味は伝わらずとも。
そういう意味で、自分は国籍よりもその人がどこに住んでいるか、という事に興味を持つようになったという話でした