ハラスメント警察はハラスメントを無くせない
keroxp.icon2019/12/21
最近世界のいろいろなところで様々なハラスメントが顕在化していて、それらを頑張ってなくそうという努力を見かける
僕はこの動向を傍から眺めていて、なんだかことがあらぬ方向に行き始めていると感じる
まず違和感を持っているのが、「ハラスメント」という言葉の差す行為や状況が多岐にわたりすぎていて誰もそれを正確に定義できていないということである
一口で「ハラスメント」と言ったところで、実際に起こりうるハラスメント行為はそのコミュニティや人間関係に置いてほとんど独自の状況だと思う
特にXXXハラスメントという言葉が乱立しすぎているのは問題をより解決しにくくしているとさえ感じる
例えばアルコール・ハラスメントとセクシュアル・ハラスメントは同じくハラスメント行為として定義されているが、両者は起こるであろう状況も、結果として引き起こされる被害状況も異なるだろう。被りうる精神的被害はどちらもひどいものだと言えるが。
ハラスメント行為に相当する行為をもし刑法で犯罪と定義する場合、おそらくその両者は全く別の犯罪名になるはずである
なぜなら被害は似ていてもそれを起こす行為が異なるからだ
起こす行為が根本的に異なるのであれば、その解決方法が異なるのも当然である
セクハラとアルハラが同時に起こりうる状況で、たった一つの方法で問題を解決しようとするのは困難である
だが、現在のハラスメント対策はその困難、というか逆効果さえありえるような方法に傾きすぎていると感じる
今、日本の社会はかつてないほどアンチ・ハラスメント旋風が巻き起こっていて、ハラスメントを起こした人間は、特に著名人ならばそれはもう社会的地位を失うレベルで断罪されるような状況になっている
しかしこれはそもそも本気でハラスメントをなくそうとした結果なのだろうか?
ハラスメント被害にあう人を極限まで減らす、という本来の目的を達成するために最も適した方法なのだろうか?
僕にはどうもそれが疑問で仕方がなく、この潮流に危険さえ覚えている
まず前提として、ハラスメントは特に両者の間に立場的な均衡が取れていない状況で起こることが多い
そもそも人間には立場も上下関係も存在しないというのが立憲的な国家の理想像だとは思うのだが、当然ながらそんなことはない
個人的なハラスメントの定義を語ろう
「ハラスメントとはあるコミュニティの中で、上位的地位にいる人間が、下位的地位にいる人間に対して、そのコミュニティの中での不利益をちらつかせ、される側にとって何らかの不当な要求を押し通すこと」だと理解している
一般的なハラスメントの定義は知らない。だが、とても多くのハラスメント行為がこの定義に当てはまるはずである
ここに登場するいくつかの要素がハラスメント行為においては重要であるということを考えたい
コミュニティ
上位的/下位的地位
コミュニティの中での不利益
される側にとって不当な要求
この4つである。というか、この4つの要件のどれか一つが欠けてもハラスメントにはなり得ないのではないか、とすら個人的には思っている。
ハラスメント行為のほとんどは、何らかのコミュニティの中で発生する
「道を歩いていたらXXハラにあった」「海外旅行に行ったら現地でYYハラにあった」といったことはないのではないか
なぜかというと、こういった状況で起こることは単に「犯罪」もしくは「トラブル」と定義されるからである
犯罪やトラブルは、当然ながら特定のコミュニティに依存する状況ではないから、警察や裁判所、仲裁者によって解決に導かれるのが普通である
ハラスメント行為はその時代の法律では犯罪ではなかったり、犯罪であっても非親告罪なので被害者は泣き寝入りすることが多いので、状況としては深刻であったとしても通常の社会(=道端)とは対処方法が異なると考えられているフシがある
だが道端でいきなり酒を飲むことを強要されたり性行為をさせられそうになったとしても、それは状況によっては単なる犯罪行為であるし、よりマイルドな状況であれば普通に断ってオシマイである。
もし断られた側が普通に引き下がるのであれば、それは確かに異常な状況ではあるがハラスメントとは言えないと思う
なぜかといえば、飲酒や性行為に誘うことは至極普通の状態でも有りえ、それは状況によってはハラスメントにも犯罪にもなり得ないからだ
そういった行為がハラスメントになり得るには、まずあるコミュニティとそこへの所属ということが前提になる
次の「上位的/下位的地位」というのも、コミュニティとセットの要素である
コミュニティには、当然のように地位が存在する
なぜかは分からないがコミュニティが形成され、人が集まると自然的に地位が生まれていく
一般的に、コミュニティには何らかの目的が伴う。目的のないコミュニティは、実質的に存在し得ないといえる。「コミュニティ = 目的の為に集まった集団」と定義できるだろう
そういった目的を共有した集団の中ではコミュニティ内特有のルールや上下関係、そして特有の利益が生まれ得る
上位/下位という関係性や、利益/不利益はコミュニティによってまったく異なるのが特徴と言える
大学では「教授/学生」、会社では「上司/部下」、芸能界では「プロデューサー/新人」のような関係性である
注目すべきは、この組合せ以外ではハラスメントは起こりにくいということだ。これらの組み合わせをずらせば、それは先に上げた道端の状況と同じになる。音楽プロデューサーがデビューをちらつかせて化学系の学生を脅したところで、全く意味のない状況になることが分かるだろう。ハラスメントをする側にモチベーションがまったくないからである。
これは当たり前に思えるが、とても重要な事実だと言える。
なぜならば、ハラスメントを行う側は大抵の場合コミュニティの外ではそういった行為を行わないからだ
ここが単なる犯罪者や迷惑な人間との大きな違いで、前者はその事情によって時と場所を選ばずに自身の欲求を行動に移すのに対し、後者は自分が上位者にあるコミュニティの特定の状況でしか欲求を行動に移さない
これが現在に至るまでハラスメント行為が顕在化しにくかった理由であり、よく言及される「やってる本人は悪いとは思ってなかった」系の状況だと言える
ハラスメントは「コミュニティ内特有の上下関係に基づいて特有の利益をちらつかせて、不当な要求をすること」と定義した
ここでさらにその4要件を構造化してみよう
コミュニティ
-> (特有) 上下関係 / 利益不利益
-> (一般/特有)不当な要求
重ねていうが、ハラスメントとコミュニティはセットであり、事態の最上位にある構造である
その下位構造として残りの3つがあるが、この3つのうち「上下関係」「不利益」はコミュニティ特有であることに対し、ハラスメント者が要求する「不当な要求」は必ずしもコミュニティ特有の不当性があるわけではないということだ
これもややこしい点で、事例によってはコミュニティ特有の要求であったり、そうでなかったりする
セクハラの多くはコミュニティ特有の不当性はないが、アカハラの多くは特有の不当性があるように
つまりハラスメントが起こりうる状況はどれも似通っているが、実際に行われる要求的行為はハラスメント者の個人的な欲求である場合が常といえる
ここは考慮すべき点だが、仮に状況が同じでも、要求が全く個人的ではなく、それが一切利他的なことであった場合、それはハラスメントとなりうるのだろうか? 要求された側が、それをハラスメントと認識するのだろうか?
なりうるような気もするが、そもそもそのモチベーションが意味不明なので考慮しないものとした
ここまでの議論でハラスメントの構造がより明らかになったのではないだろうか
ハラスメントとは、
まずコミュニティがあり、両者はその所属者である
加害者は常に上位者、被害者は常に下位者である
下位者に課される不利益はコミュニティ特有のもの
下位者に要求される行為は、加害者の個人的な欲求
この議論が困難を極めるのは、こういった一般的な定義ができたところで、どこで、誰が、なぜ、誰に、何をしたらハラスメントになるのか、あるいはならないのかというのはすべて個別の事例であり、判断ができないということだ
僕がハラスメント的行為をすべて「ハラスメント」として定義し、社会として対処しようとすることの危険性はここにあると思っている
これらの要件のそれぞれは、ハラスメントの事例によって大きく異なり、なぜその状況に至ったのか、というコミュニティ内での複雑性を考えなければ根本的な解決には至らないからだ
アンチ・ハラスメントの標語は「XXハラは良くないです。なくしましょう」というものばかりだ
だがこういった標語は、XXに相当する行為のみに注目し、それが起こりうる状況や理由を考慮していない
どういった状況であってもXXは許されず、ハラスメントとして断罪されるべきという姿勢を感じる
繰り返して言うが、ハラスメントとは行為そのものではなく行為が起こり得る状況である
ハラスメントとは、特定のコミュニティで、仮想的な上下関係に基づいて行われる、個人的な暴力である
ハラスメントを完全に駆逐する唯一の方法は、あらゆるコミュニティを解体し、集団を禁止することである
これはいじめを解決する方法とまったく同じである
当たり前だが、コミュニティに起因した問題は、コミュニティを解散させればそのコミュニティでは二度と起こり得ない
だがそれの議論は意味がないので、コミュニティを存続させ、所属者を維持しつつハラスメントを根絶するためには何が必要か?
それは、行為のみに注目してこれはダメ、あれはダメ、これはOK?、あれはOK?、といった風に個人の行為を厳しく規制することではないと思っている
根本的な解決は、コミュニティの中での仮想的な上下関係をできる限り減らすことにあると僕は思っている
ハラスメントの4要件のうち、残りの3要件はどうあっても無くせない、根源的な要因であると僕は思っている
だが「上下関係をなくす」ということは全然不可能ではない、というか現に社会はそのように成立していることだと思う
人類が現代の立憲制法治国家に至るまでには、社会のあらゆる場所は不平等だった
だが人類は時間をかけて、制度上は国家に所属するどの個人も対等であるという制度に到達した
現代はこの前提がなければどんな活動も成立し得ないし、これを保つために多くの公的権力が認められている
ハラスメント解決しにくい問題であるのは、コミュニティがそのローカルルールに則って運営され、構造的な上下関係が必然的に生まれるというところにある
目的ある集団であるコミュニティの中で特有の利益が生まれないということは不可能だし、そこに所属する個人がもつ個人的な欲求もまた防ぐことはできない
だが上下関係を廃し、すべての所属する個人が対等な関係にあるという厳しい制約を作れば、コミュニティは構造的にハラスメントを防ぐことが可能になるのではないかと思っている
重ねていうが、ハラスメントを防ぐために行為にのみ着目するのは、非常に危険なことである
コミュニティの運営者が(ある意味では他人事として)ハラスメントを未然に防ぐということだけにやっきになったしても、それは所属する人間にとっては息苦しく、面倒で、馬鹿馬鹿しいとすら感じる行動規定になり得る
ハラスメントをなくすためには、コミュニティ構造を平滑化し、その運営に第三者監査を設けるべきと感じている
行為のみに着目したアンチ・ハラスメント施策がこのまま突き進めば、「会社の飲み会は全面禁止」だの「上司が部下をデートに誘うのは禁止」だの「教授が学生の論文にケチを付けるのも禁止」だの、本来の目的を逸脱した単なる禁止令のオンパレードになっていくのは目に見えている
そしてそうした締め付けが常態化した社会では、ハラスメント者になりうると認定された人間の中で不満が募っていくだろうし、そのしわ寄せがコミュニティ外へと移っていくようにしか思えない
「XXはハラスメントだから許されない」という短絡的なロジックは、「XXがそうならYYもそうだしZZもそうだよな」という無限の連鎖を生み、「ZZはハラスメントである」と主張さえすれば「そうだな、ハラスメントなら許されないな」という無関係な人間のメディアスクラムを生む
そうなると、ハラスメントの定義は突き詰めれば「不快な思いをした」というところに行き着く
だが実際の生活で不快な思いをすることなど枚挙に暇がなく、それらすべてを糾弾してなくせるのならなくしたいと思うことばかりだが、本当にそれが理想なのだろうか?
多くの人間が集まるコミュニティで、すべての人間が全く不快な思いなく過ごすのは不可能である
であれば、ハラスメントと不快さは分けて考えられるべきである
ハラスメントは状況に起因し、不快さは行為に起因する
ハラスメントはコミュニティの構造を変えることで、単なる不快さにdegradeさせることが可能なのではないか
人間の行為に起因する不快さは、そのコミュニティのルール運用で改善が可能なことではある
だがハラスメントはコミュニティの構造が変わらない限り、形を変えて永遠に無くならないと感じる
現代は無関係なハラスメント警察がネット上を闊歩し、多くの人はそれらを真に受けて行為にのみハラスメント性を認めようとしているが、これは危険な兆候であるということを主張したい
注目すべきは、行為のみではなく、行為が起こりうる状況であるということが僕の言いたいことだ
あとは、単なる犯罪行為をハラスメントに含めてしまうことの危険性も付記しておく
まぁ、これもひとつの理想論であるということは理解しているつもりだが