なんで勉強すんの?
突然だが僕は常々勉強に興味が持てない子供に同情しているkeroxp.icon2020/3/8
なぜ学校で勉強するのか?この勉強にどんな意味があるのか?なんの役に立つのか?
そういった子供の純粋な質問に答えて彼らを納得させられる大人はどれだけいるのだろうか?
僕はそういう光景を目にすると、つい遠い目になってしまう
というのもそういった子供の質問に対して大人が決まって答えるのは「XXをするとYYがZZになるから」という、実利や功利的な論理ばかりだからである
いい大学に入ると良い企業に入って良い給料がもらえるとか(もはや昭和的 平成的ノスタルジーだろうか?)
ベクトルや行列の計算はゲームを作る上で必須の知識だとか
世界史を勉強しているとニュースが面白くなるだとか
日常的に運動をしていると病気になるリスクが減るだとか
こういった論理は、他に似たような例えがあるので子供でもわかりやすい(と思われている)
そこには次のような自明な理屈が存在する(と思われている)
「功利的な活動はすべきである(なぜなら得だから)」
「非功利的な活動はしなくてもよい(なぜなら得をしないから)」
つまり人間は当たり前に社会的な功利を追求する生き物であるという前提があるわけだ
まったく功利的な思想がない場所で育つ人間はこの国ではまれだ
「XXをすると得である」という論理が真なのであれば、得られる功利について理解できればXXの価値も理解できる
大人が子供にXXの価値を説明する時にこの功利理論を持ち出すのは、XXと得の間には一見関連性がなさそうに見えるからだ
「勉強をするとお金が稼げる」という理論は飛躍しすぎている
しかし「お金が稼げる」ということは多くの人間にとって得であることが自明なのでその飛躍は無視可能である…
そういう風な説明する側の適当な態度が子供を勉強から遠ざけている……というのはよくある話なのだが
僕が思うのは、「多くの子供が勉強の価値を見いだせないのは、その功利理論を説得力を持って語ることのできる論者が少ないから」だと思われているのではないか?ということである
成功した科学者やスポーツ選手が子供の前に担ぎ出されるのは、周りの大人たちが自分たちでは説得力を持ってその理論を展開できないからなのだと思っている
自分が小市民的な成功しか得られなかった(と思っている)大人は、子供にとって説得力のない存在にしか映らない(と思っている)
そういった大人が何を言ったところで「そうは言ってもアンタはさ…」と言われてしまうと悲しいので、どこからか成功した(と思っている)人を連れてきて自分の中にある理論を代弁させようとする
連れてこられた人もそういう事情をよく理解しているので、空気を読んでそれっぽいことを言うわけだ
だが誰がそれを語ったところで、僕は究極的には功利理論で勉強することの価値は教えられないと思っている
功利理論の脆いところは、実際Xをやった結果その社会的功利をイマイチ得られなかった人が大勢いるというところだ
英語は喋れるが人と仲良くなれない人とか、プロ引退後に就職先がないスポーツ選手とか、受験勉強は超出来たが大学に入って特にやりたいことがない大学生とか…
そういう人たちが獲得した高い能力は確かに勉強によるものだが、高い能力は必ずしもその人に社会的な功利をもたらさない
なぜかと言えば功利理論はそこに「功利がある(可能性が高い)」と保証はするが、その功利が実際何なのかは保証しないからだ
社会的な功利として大きくクローズアップされるのは「お金」か「能力とその名声」だが、勉強の結果それらが得られる可能性は高くなるが、それらが本当に万人にとっての功利なのかというと、とても疑わしい
功利理論は価値(あるいは幸せ)と単なる希少性を区別できていないのではないか?
希少であることが社会においては絶対的な功利であり、大人は子供に社会の中での希少性を獲得するために勉強があると説得したがる
あるいは科学的な功利性が社会の中でどのように存在しているかを理解させようとする
それはあたかも努力や苦痛の対価として功利が得られるという等価交換を語っているが、それも疑わしい
誰も彼も勉強自体はツマらなく苦痛だが、その対価として希少性を獲得できると
だが僕は実際はそうだとは思えない。実際は、
単に勉強そのものに功利を見出した人間たちが作り上げたのが今の社会である
ということだけなのではないだろうか?
どんな分野の勉強でもそうだが、それを始めて体系だてた人間の動機はとても社会的な功利とは言えない
そこには色々な目的があったり、単なる興味だったりするわけだが彼らを突き動かす動機はそれそのもののような気がする
要するに物事そのものを楽しむ動機がどこからともなく湧いて来ない限り、それをする真の動機は得られないのではないか?
「いいことがあるからXをする」という理論は「いいことがないならXはしない」と同義であり、功利が保証されないなかでXをするというのは心情的に厳しいものがあるのが普通だろう
だがXがそもそも自己目的であるならそういった問題は起こらない
そこにあるのは「やりたいからやる」あるいは「やりたくないのでやらない」というシンプルな二択のみで、「なぜやりたいのか?」を考えることは無意味ではないか?
やりたいやつがやりたいようにやった結果できたのが今の社会なのであれば、普通の人にとっては意味や価値が簡単に理解できないのは自然なことなのではないか?
そこには別のやりたさが存在し、別の社会やルールが存在していたかもしれないわけだから、そういう事情を理解できていない子供にそう簡単に勉強しろと言っても無理があると僕は思うわけです
要するに「好きこそものの上手なれ」というか、人間が何に興味を持てるか、何を好きになれるかは人それぞれなのであまり社会的な成功といったものを第一において生きるのはどうなのかなと思うわけです
結局は、物事をただ楽しめた人間の知識や経験が後世に学問というフォーマットになっているだけなので…
なので、もし勉強をすることの意味を子供に聞かれた大人が答えられる最も真摯な答えは、
「楽しいから」
もしくは
「必要になったから」
になるのではないか。一見最も適した答えから遠いように見えるが、それ以外に真実は無い。
知識は、純粋な楽しさか必要性に駆られない限り自発的に得ることは難しい。あるいは両者は同義かもしれない。
ただこの理論は、「楽しみを見いだせない」もしくは「必要と思わない」人間には勉強の意味を教えられないという全くもって目的外れな結果を生みかねないという哀しさとも隣合わせである
こんなに長々と独自の理論を展開してきた結論としてはいささか寂しいけど、僕が言いたかったのは「それを説明するのはそんな簡単じゃないぞ」ということで、誰も彼も説得力なんて持てやしないぞ、ということです。