「天気の子」を受け入れられない
書きかけなので読む必要なし
「天気の子」楽しみにしていたので公開初日に2回観たkeroxp.icon2019/7/22
事前の予告や冒頭公開を一切見ずに観に行った
概ね好評な意見が多いようだが自分は傑作だとは言えない。駄作だとも言わないが
公開二週間も経ったし評価も固まってきたので書き始めるkeroxp.icon2019/8/5
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僕が天気の子を最初に観終わって率直に抱いた印象は、「お前何言ってんの?」
天気の子は最初から最後まで穂高を中心とした視点で描かれている作品である
説明されないキャラクターの背景
天気の子の主要なキャラクターは、主人公を始めとしてほとんどその背景が明かされない
穂高に関しては伊豆諸島の離島から家出してきたと以外最後まで明かされない
家出してきた理由もハッキリしない
家族とどういう関係だったのかも分からない
学校に友達はいなかったのか? ネットの中にも友達はいなかったのか?など
帆貴は作品冒頭から須賀の事務所に転がり込むまで、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいた
この描写でこのキャラクターの位置づけはなんとなく理解できた
一応説明しておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデン・コールフィールドは50年代のアメリカで、ハイソな高校や親の軋轢に耐えかね、一人で生きようとニューヨークを彷徨うがそこには彼が求めた自由はなく形を変えた"PHONY"(うそっぱち)な世界が満ちていた、という話だ
自分は一応村上春樹版と原書を読んだことがあるし、攻殻機動隊S.A.C.での引用のされ方からこの本が物語の中でどういう意味合いを持つのかは察知できたと思っている
この時点で「なるほど穂高は現代のホールデン・コールフィールドなのか?」とも思った
が、穂高が東京で須賀の事務所に転がり込むようになってからこの本が描写されることはない
ホールデンは旅の道中マジでろくな目に合わない(自業自得)
加えて誰ともまともな人間関係も築くことができない
のでこの時点で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の引用は終わったのだなと感じた
東京での生活の始まり方は『君の名は。』でもあったようなエモーショナル・ライン(観客の感情の起伏)をコントロールするための描写としてとても新海さんらしかった
RADWINPSのアップテンポなMV風になっているのも前作と同じ
日菜に関して
作品の冒頭でヒナの母親が死んでしまったことが描かれるが、この母親の存在は作品内で驚くほど影が薄い
ヒナは自分の母親について「もう一度太陽の下をお母さんと歩きたかった」としか語らない
ヒナの母親が亡くなったのは作品の一年前だということが言及されているが、その一年の間にヒナとナギの兄妹にどんなことがあったのかも描写されない
ヒナは作中で母親が亡くなって悲しい、という素振りを見せない
「もう終わったこと」と母親の死を受け入れ、生きていこうとしている
ヒナとナギの父親についても描写がない
おそらく離婚後のシングルマザーの家庭であったのだろうということはヒナたちの家の様子でよく分かる
のだが、父親についてヒナたちがどう思っているのかも描写されない
なので、良くも悪くも演出上ヒナがどういう人間なのか、どうなりたいのか、どんな問題を抱えているのかというのが分からない
これは僕は穂高も分かっていなかったと思っている
ヒナが過去や家族について語らない(描写されない)というのは、おそらく強い演出意図の上にされている
のだが、だとするとヒナが抱え込んだ「天気の人柱」という問題はどんな方法で解決されるべきなのか、というのが最初の時点で想像がつかなかった
他人事な登場人物たち
この作品はとにかく登場人物どうしがどこか他人事のように描写される
穂高とヒナであってもそこにお互いを理解し合おうという意識が感じられない
須賀は船で知り合った穂高のことを家出少年だと知りながら、叱ることもなく、受け入れることもなく、ただ都合のいいように(お互いにwin-winだから問題ない)というスタンスで最後の最後まで付き合っている
須賀もかつて家出少年だったということは語られているが、であればなおさら穂高を中途半端な大人扱いせずに、最初から子供扱いして大人としての責務を果たすべきだったと思う
また須賀は喘息の娘がいるにも関わらずタバコをやめられない
須賀の義母も、須賀を家族とは認めずに自分の娘とその子供だけが自分に関係のある存在だという態度を隠そうともしない
須賀が取引をしている出版社も、須賀たちを都合のいい使い走り程度にしか捉えておらず、そこに信頼関係は無い
須賀の姪であるナツミも、叔父であるという以上に須賀のことをどう思っているのかがハッキリしない
楽なバイトとして須賀の仕事を手伝ってはいるが、(冗談なのか本気なのか)「こんなところ腰掛けよ!」と言ってはばからない
その割には主体性はなく当然就活でも「何者」にもなれない
ナツミも、大学生とはいえ成人済みの大人であるにも関わらず、穂高のことをただの都合のいいバイトくらいにしか扱わない
須賀の家に転がり込んでいるという理由からか、「穂高の処遇はすべて須賀の責任」という態度を取り続ける
穂高にどんな出来事が合っても、ナツミは穂高について本気で向き合おうとはしない
少し変わった叔父がなんか変なことをしている、以上の首の突っ込み方をしない
面倒事はごめんだ、自分は関係ないという態度を取り続ける
穂高も自分の境遇や家出をした明確な理由を誰にも話そうとしない
隠している、という感じはあまりないので本当に確たる理由がなかったというのが個人的な解釈である
そんな穂高にヒナは「どうして家出をしたの?」と料理を作りながら背中で語りかける
穂高は「なんか、息苦しくって」と答える
ヒナは「そっか」と答える
このやり取りでヒナは穂高に対しての距離を再確認したのだと思っている
ヒナの家に行った時点で、ヒナは穂高に自分が年上だと嘘をついている
この理由はイマイチはっきりしない
だが、この嘘が結局最後の最後まで穂高とヒナを苦しめることになったと思っている
15歳で中学生のヒナが年齢をほぼ18歳と偽ったのは、相当に無理のある行為だ
それこそ穂高と深い関係を築く意思がない、とその時点で言ったのに等しい
これはさらにヒナに学校の友人がいないということも示唆している
不登校なのかどうかはよくわからない
単純に、ヒナの知り合いが一人でも登場すれば、ヒナの嘘はすぐに穂高にバレてしまったからだ
穂高がヒナの年齢について疑いを全くもっていなかったのは晴れた後の態度でわかる
それまでにかなり勘付きそうな点のある薄っぺらな嘘なのだが、穂高は全く気が付かない
穂高がヒナの嘘に気が付かないというのは、もはやわざと何じゃないかとも思えてくる
ヒナの顔つきや体型が小学生のように幼いのは僕は最初に観たときにすぐ分かったし
ヒナの制服姿や学校に行っている素振りが全く見えないことに穂高が気が付かないわけがない
ヒナが高校に行かずに働いていると解釈するなら、少なくとも何かヒナについて知ろうとしたはずだが、穂高はヒナについて何も知ろうとしなかった
また、ナギも穂高に姉についての本当のことを話さなかったことから、ヒナはナギにもそのことを秘密にするように言っていたはずである
そうなると、ヒナが穂高に「そっか」「今はどう?」としか尋ねなかった理由も自ずと分かる
ヒナは穂高に限らず社会の誰も信頼していなかったし、どうしてそうなのかも描写されない
ヒナの自宅には区の児童相談所の職員が足繁く通っていたようだし
強制的に執行されていないのもよくわからない
ヒナの自宅は借家なのか、持ち家なのかも不明
生活課の婦警もヒナの事情をよく知っていた時点で、ヒナは区という社会の中でかなり心配されている存在のはずだ
にも関わらずヒナは社会との接点を持とうとしない
マックのバイトをクビになり、水商売をしようと決意してまでもナギとの二人暮らしを続けようとする
確かに、親のいない親族もいない児童がどんなその後社会の力でどんな生活を送るのかは知らない
ヒナは婦警に対して「誰にも迷惑を掛けていない」と言う
だが、そのセリフは虚しく響く
具象化されすぎた社会
新海作品は膨大なロケハン資料に基づいた緻密な背景描写が特徴だが、今回は少し質が違ったように思う
過去の新海作品でも新宿、代々木近辺の描写は繰り返しされてきたが、そのリアリティはかなり盛られた美しさがあった
しかし「天気の子」における東京の街の描写は、上記を逸したリアリティで描かれていたといえる
そこに新海的な理想の美しさはなく、本当にただコンクリートで無造作に固められた東京という汚い街が描写されていた
新海さんは「天気の子」でそういったどちらかと言うと経済的な理想でない現実も描きたいとということをインタビューで語っていたが、その試みは間違いなく成功している
だが、その結果残ったのは、過度に具象化されすぎた日本社会、特に東京の異質さである
はじめに断っておくが僕は東京の都市部が本当に嫌いである。そのいびつさ、汚さを憎んですらいる。
過去に何年か住んだ経験から本当に嫌気が差してもう二度と住むまいと決めている
なので藤沢という土地に住んでいるのだが…
とはいえ東京は間違いなく日本のすべての中心であり、すべての対立の対極に位置する存在である
「天気の子」で具象化されたリアルな東京は、華やかな成功者の街である東京の反対側
言ってしまえばその経済的底辺に暮らす人達の風景だ
学歴もなく、(=東大など、大学都市としての東京)
知り合いもなく、(=非地域性としての東京)
家族もなく、(=個人空間としての東京)
お金もなく、(=拝金主義空間としての東京)
そんな人間たちが東京でどう暮らすかといえば、はっきり言って悲惨である
地方との単純な比較はできないが、地方よりも悲惨度は高いように僕には思える
穂高もヒナも、そのバックグラウンドは特別ではない
彼らはこの日本のどこにも居える存在だし、その不幸も等しいと思う
だが、2021年の東京においては目を覆いたくなるような悲惨さを感じた
特に、彼らが最も不幸なのは年齢が足りないことやお金がないことや家族がいないことでもなく、
純粋に友達と呼べる存在がその土地にたった一人もいないということだ
穂高もヒナも、なぜか頑なに自分から交友を広げようとしない
特にヒナは人を頼ろうとする素振りも見せない上、その欠落を常に「お金」で解決しようと奔走している
須賀とナツミの交友関係も描写されない
この2人の大人は穂高たちの境遇を知っていながらも、真剣に向き合おうとしない
16歳の子供が家出をして親が警察に届けないわけがないということの重大さを深く考えていない
ヒナの家庭環境について深く心配する素振りをみせない
ナツミは初めてあったヒナに対し呑気に「女子高生うらやましー」と言う
とにかく「天気の子」の登場人物は東京という土地に強固に縛られ、なぜかその理論を受け入れている
確かに「都市は人を自由にする」という言葉どおり東京は個人が生きやすい土地かも知れない
だがそれは個人ではなく「金が十分にある個人」の話である
金が足りない個人はその足りない部分を他のなにかで埋め合わせなければならないが、天気の子の登場人物たちにはそれがない
なので最初から最後まで救いは無いし、結末に驚きもない
そして穂高やヒナは結局東京でどう「自由」に生きたかったのかがまったく分からない
なので、具象化され過ぎた東京での出来事から僕が感じたのは、嫌なリアリティだけだし、
「これは貧困もののドキュメンタリーなのか?」とすら感じた
ヒナが天気を操れることや、雨が三年降り続くとかはもうどうでも良くて、ただ「東京で金もツテもなくて不幸」というドキュメンタリーを映画館で見せられたようにしか感じられなかった
だから結末に関しては僕は驚きもさほど無いし、それが物語の構造として意味を持つとも思わない
ただ、雨が降り続いただけ
そこに人間や社会の介入する余地はなく、したがって穂高やヒナの抱えていた問題も関係があるようでない
僕の解釈ではヒナが天気の人柱として選ばれたこととは関係なく、雨は降り続くことになっていたのだろうと思う
物語の後半は、「こんな不幸なヒナが犠牲になってこんなクソみたいな社会が救われるべきなのか?」という穂高の、個人と都市社会のシステムとの決定的な対立、そしてその戦いが描かれたように思える
自分さえ良ければその裏にある搾取や不正義は知らんという都市(=社会)の構造が、降り続く雨と天気の巫女という構造で描かれたのは確かに物語の構造としては面白い
だが、ヒナたちが搾取された東京という構造は、彼らが「100%の晴れ女」として利用したシステムそのものである
「100%の晴れ女」という存在は、インターネットと巨大な都市がなければ成功しなかった
だから彼らがそうして都市での成功のレールにベットした時点で、負けても社会のせいだとはなりえない
彼らは最初から最後まで都市の強固なシステムに囚われ続け、そのルールに則って社会の一員たろうとし、裏切られたに過ぎない
「お金を持っていない人間は客とは見なされない」という資本主義の基本構造である
なので、穂高がそのシステムに個人として戦いを挑むにあたって彼が持っていたものが「愛」だというのは少し都合が良すぎると僕は思う
「愛」しか手元にないと言うのであれば、なぜその「愛」で最初から東京というシステムに対抗しようとしなかったのか
穂高やヒナが、最初からお互いのことを少しでも知って本気で寄り添おうと思ったのなら、あんなことにはならなかったはずだ
社会が歪で狂っているのは前提としても、彼らが不幸なのは彼らの人間性に起因するとしか僕には思えない
補考:個人と社会の描き方についての細田守との対比