コミュニケーション負荷の偏り
「普通」や「常識」や「マナー」といったものは、人間を管理し、抑圧し、それに従わない者を排除するのもだと言われる。
なぜ「普通」や「常識」や「マナー」が必要なのか。自分なりに言語化するとすれば、それは「ある特定の人物だけに、コミュニケーション負荷を偏らせないようにするため」だと思う。
たとえ一対一の関係であろうと、そこには必ず権力の差が発生する。平等なコミュニケーションを志向することはできても、実現することは不可能である。実現できるのはただ、うまい具合に権力を調整することだけだ。
「みんな」と違う性質を持っている人や「みんな 」と違う行動をとる人を排除する。それが「普通」や「常識」や「マナー」であるといわれる。
しかしながら「みんな」と違うふるまいは、それを受け入れる相手に対して、コミュニケーションの負荷を偏って与えることになる場合がある。
人はひとりひとり、自分が主役の人生を生きているはずだ。ところが「みんな」と違う人、トリックスター的な人を受け入れる時点で、その人はワトソン的な立場に否応なしに追いやられる。主役の座を追われる。
「普通」や「常識」や「マナー」には、そのような主役の座を負われるようなコミュニケーション負荷の偏りを発生させない効果がある。いや「誰も主役にしないためのシステム」と呼んだほうがいいかもしれない。