AIが普通になった現代の「中国語の部屋」
「中国語の部屋」に関する厳密な議論はさておき、この時は誰もがこの状態になれる想定はなかったのかもしれない。AIを使って知らない言語同士でやり取りするのは、少なくとも文字ベースなら「理解」しているかどうかはともかく、誰でも可能かつ有用である。 サールはカテゴリー過誤を犯しているのかもしれないが、AIがあれば言語の学習は不要という主張もまた、同じようにカテゴリー過誤であるということになるのだろう。どのような有用性を目的としているかによって、評価が変わるのだから。まずは、その目的について擦り合わせないと、議論が成立しない。
「言葉の自動機械」というフレーズに見られるような、サール的な意味での「理解」をともわない表出に対する「感情教育」が必要であるという議論もまた、そうした観点からは再考の余地があるように思われる。また、畢竟「言葉の自動機械」であることから、人間は逃れられないのかもしれない。
人間がある「言葉」の「自動機械」なのであるとして、「自動機械」であることは認めるとして、その時の「言葉」の方を豊かにするという選択肢もあるだろうと思われる。つまり「中国語」以外の「辞書」を持つことを可能にすることである。「自動機械」ではあるかもしれないが、マシな機械ではある。
とすると、ではどういう場合にどの「辞書」を用いるべきなのか、それをどういう仕組みで判断し得るのかという課題が残る。さらには、その判断をする「知能」は「言葉の自動機械」と何が違うのか。そのような審級は現に存在するのか。何らかの形で構成し得るのか。無限ループに陥る結果に終わるのか。
そこまで突き詰めなくても、まずはある種の場面ではこの「辞書」を用いるのが適切であるという判断能力を、人間が身につけることは可能である。道徳的判断を、理解をともなわないまま処世術的に遂行し、望ましい結果につながる行為が実現することは普通にある。そして、それは世界をよりよくし得る。
そうであれば当面の問題解決のために、「辞書」の多様性を担保することがひとまずは必要であると考えられる。「感情教育」や原理的な思考もまた必要かもしれないが、隘路に至るだけだろう。であれば「辞書」が複数の勢力によって構築・維持されることを可能にするべく行動するのがとりあえずよかろう。
それで人間が「波打ちぎわの砂の表情のように消滅」したとしても、潮の満ち引きが終わるわけでもないのだし、ましてや世界が破滅するわけでもない。そうなった後の世界が、いまよりももっと良い世界である可能性すらある。むしろその時、砂粒の群れに潜在する表情として、人の感情は純化されよう。
最近はそういうことを考えていた。自分としては、ひとまずは「感情教育」的な隘路から抜け出せたのはブレークスルー。一方で、また別の隘路にハマってしまっているのかもしれない。