2025年2月28日
朝8時から日本CTO協会のミーティングで開始。メンバーがあれこれ打ってくれている施策にも成果が出始めてきていて、ありがたい。新規事業の方もじょじょにモメンタムが出てき始めている予兆を感じられて、はずみ車にしていきたいところ。
移動中に「東浩紀無料雑談#7 リベラルデモクラシーの(いったんの)終わりについて」の音声を聞いて、あれこれ考える。基本的な現状と見通しの認識は同感。自分自身、今後数十年間で中国のような権威主義体制が一方の極において覇権を取ることは大いにあり得るだろうけど、それでもアメリカがいるからなあと思っていた。そのような信頼自体は疑わずにいたのだが、もはやそうもいっていられないだろうという状況である。 それはそれとして、「ガンギマってる」という概念が面白い。ここで批判されているような道徳にこりかたまった人々もまた、「ガンギマってる」。「ガンギマってる」こと自体にいいも悪いもなくて、変な宗教に対してそうなってると思われれば忌避されるし、覚悟が決まっててリーダーシップがあると思われれば支持される。そういう意味では、「ガンギマってる」んだから議論してもしかたがないというのはその通りだろうし、それもまた良くも悪くもある。「ガンギマって」ないとうだうだいうばかりで実現できないこともあるし、「ガンギマってる」ことで「訂正」が効かなくなって暴走することもあるだろう。
自分としては、ローティのいう「野生の蘭/トロツキー」的な機制をどうバランスするのか、あるいはどちらか一方に「ガンギマって」しまうのかという問題であるように思える。何かに「ガンギマ」ること自体は、対象がなんであれ、人の話を聞かなくなってしまうという意味において、構造としては同じ。自分自身の生き方としては「ガンギマ」ることはできるだけないよう、常に開かれてありたいと思う。一方で、例にもあったような土地を巡る話のように、そもそも「ガンギマってる」問題が社会には多くあって、そこをどう別の「ガンギマ」り方で対応していくかってのは、処世術としてやればいい話。
ただまあ、そういうふうに考えること自体が「ガンギマって」ないわけで、それが自分の弱さではあろうともずっと思っているところでもある。じゃあ完全に「ガンギマ」りたいかというとそうも思わない。そして、それが自分の弱さではあろうともずっと思っている。というループが始まる。
今日の寝かしつけでは「こぐまちゃんおはよう」を読んだのだが、こぐまちゃんがおもちゃをたくさん抱えて「おもい おもい」というところで、その文字を指して「おもい」と発語したので驚いた(「おもい=重い」はわりと早い時期からいえていた)。文字を読めるという段階にはほど遠いにしても、文字列と発語とが結びついていることには、なんとなく気づいている感じはする。読み聞かせの時に、文字にも意識が向くようにしてきたのが功を奏しつつある。
Fluent Foreverの続きを読む。暗記について、構造(字面)→音→コンセプト(意味)→体験との紐付きの段階を説明しており、その段階が進めば進むほど記憶に定着しやすいと整理する。わかりやすい。一方で、そこまで持っていくのが面倒で、良くてコンセプト止まりになるから記憶ができない。その辺をクリアできる方法がこれから説明されることを期待したいところ(そうなると思うけど)。 ----