2024年12月11日
リトルKを保育園に送った後、Kと喫茶店で朝食をとる。隣の席の女性ふたりが噂話と愚痴をずっといっていた。
しばらく前まで、通勤時に英語の技術系ポッドキャストをずっと聞いていたのだが、この数か月は「コテンラジオ」のアーカイブを全部聴くことを試みているため、できていない。あと100話分ぐらいある。早く終えて、語学学習に戻りたい。今度は、英語よりはフランス語の会話教材を聴くようにしたいものである。
今日は各事業の中期的取り組みについてのミーティングなど。向き合い方を変えてみて、もうちょっと積極的に関わることにした。合間に論文改訂をする。
少し遅い帰宅だったので、リトルKの世話をあまりできなかった。予定がない時は18時過ぎ頃には帰宅するようにして、寝かしつけまで世話している。その後に、だいたい夜中まで何かしら仕事関連のことをしている。仕事もしたいし、リトルKの世話もしたい。というわけで、そういう変則的な働き方になっている。
博論改訂にひたすら取り組む。ひたすら没頭して、とりあえず要求項目の加筆修正を全てやり切った。先生方に質疑応答まとめと改訂した博論原稿を送る。また何度かやり取りがあるだろうけど、あんまり時間がかからない感じになるといいなあ。
仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』の続き。多数決なりなんなりで集団的意思決定するには、最初にそれ自体に対して「満場一致」が行われなければならないという話があり、もちろんそんなことは実態としてはないのだが、そのようなことがあったという擬制こそが「一般意志」なんだろうという理解をした。読みながら、Xにこんなことをメモ的にポストしておいた。一般意志や人権概念とプラグマティズムを接続したいという思いがある。 満場一致による一般意志を、ひとまずは人権概念そのものととらえ、それを保守する力を集団的権力としたときに、その権力への積極的かつ恒常的参加を義務とする共和主義を考えることができる。その参加とは、人権の保守を旨とする社交によって支えられている。社交が十分でなければ、保守もない。そのような意味での人権は、国家なり何なりの団体を正当化する形式的な条件であり、いまのところ一般意志の欲するところと同一視しておくべきとされる、擬制そのものである。擬制であるからにはもっとよい何かがあれば変わり得る。その意味では、変化に開かれている。それもまた社交次第である。そのように限定された共和主義と、そこでの人々の義務を社交と呼ぶ。人々は一般意志の欲することを確認し、保守するために社交しなければならない。ひとまず人権と名指されたそれは、別の何かであっても形式的には問題ない。ただ、それ以上の何かは未だ見出されていない。そのような探求としての社交。
この1週間、かなりハードワークしている。しかし、そんなに疲労しているという感じもない。テンションが高まりまくっているからだろう。
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