(タイトル未定)(下書き)
はじめに
@selfish_ice@mstdn.books-lighthouse.comの、FAXを送る呼びかけ(以降)の一連の投稿を見て考えたこと。
https://mstdn.books-lighthouse.com/@selfish_ice/111335538017496771
https://mstdn.books-lighthouse.com/@selfish_ice/111335539467241251
https://mstdn.books-lighthouse.com/@selfish_ice/111335675665945373 (からのツリー)
https://mstdn.books-lighthouse.com/@selfish_ice/111335901507439224
少し日数空いて、
https://mstdn.books-lighthouse.com/@selfish_ice/111352582387579863
※追記。2023年11月10日時点でアカウント削除?
まず、坪井さんが引用・紹介している「<パレスチナ>を生きる人々を想う学生若者有志の会」のツイートから見てみよう。
https://twitter.com/omou_palestine/status/1719576781034836214
https://twitter.com/omou_palestine/status/1719577407995490508
イスラエル・パレスチナ間の「停戦」を求める国連決議を日本政府は棄権したが、11/2から上川外務大臣がイスラエルを訪問するので、上川外務大臣に「ネタニヤフ首相に攻撃の中止を迫ってください」と要望するFAXをそれまでに送ってください、ということをこの会は呼びかけている。
留意すべき点は、『これを見た全員、 今日11/1中にFAX送ってください。』と、「見た者全員」に行動を要望している点、そして、あなたがそのお願いを聞くべき根拠(上位理念)として、『日本が、 自分が虐殺に加担しないために行動してください』と書いている点。虐殺に加担してはいけない、という上位理念を共有する人々に「あ、じゃあやろう」と思わせようとしていて、スマホからでもFAXが送れる方法を具体的に紹介するなどして、行動ハードルを下げる工夫もしている。
次に、そのツイートを紹介しながら坪井さんが何を言っているかを見てみよう。
『みんなも今日中にFAX送れる者は送ろう。国連決議を棄権した上川に、虐殺に加担するなと圧力をかけよう。』
『出来る者が出来うる限りで抵抗すべきだと思っている。出来るのにやらないのは差別・虐殺への加担になる。一方で出来ない者のことも思う。「やらない」のではなくて、やりたいのに、出来ない者のことを。だからこそわたしは、やれるだけ、やる』
『やれるだけのことをやれる者がやろう、だし、やらない言い訳はやめようね、でしかない。「やれない」のは悪くもなんともないんだよ。だからやれない理由をいわなくていいんだよ、と思う。「やらない」言い訳はダメだけど』
ここで留意すべき点は、元ツイートが「見た者全員」に行動を要望していたのに対して、坪井さんは、「やりたいけどできない者」の存在を視野に入れているがゆえに(あるいは入れるために)、「送れる者は送ろう」と修正をかけている点。
この、(呼びかけの大枠に乗っかった上での)修正によって、ある「線引き」が必要になってきてしまっている。
つまり、「(できるけど)しない」ことと「できない」ことの線引き。そこでは、「すべき」という倫理・責任の前提の下で、「しない」ことは悪いことであるが、「できない」ことは悪くない(責任や悪さが免除される)、という線引きがなされている。
何もしないこと、正確に言えば(私たちは「何もしない」ことはできないので)、現状維持に加担し問題解決に向けて行動しないことは、現状の差別システム・差別行為への、つまり悪への加担である、という前提にはけむしは同意する。その上で、上記の「線引き」の導入が(理論上必然的に)要請されるような呼びかけの仕方をけむしは「とらない」(採用しない)し、後述の問題性から、そのやり方を良い・上手いと評価しない。
以下では、まず「しない/できない」の線引きの問題性を指摘した上で、坪井さんの実践した呼びかけとは異なるアプローチの仕方を提示する。けむしが最適だと信じかつ実践するこの新たなアプローチの提示、そしてその後に生まれるであろう(生まれるべき)どういうアプローチがより良いのかという議論は、個別の事例(ガザ地区での攻撃)の話に留まらない、反差別活動一般に関係してくるものである。
「しない/できない」の線引きの問題性
「しない/できない」の線引き、『やらない言い訳』と『できない理由』の線引き、は、根源的困難性を含み、またいくつかの副産物的な弊害を発生させる。この問題性について見ていこう。
「やれないのは悪くない、やらない言い訳はやめよう」といったような、そんなに簡単な論題ではない。この難しさは、そもそも、しない/できないを線引きしよう(その区別に基づいてどうこうしよう)とする試み自体が、つまり、「『(できるけど)しない』と『できない』とをどう線引きできるか」という問いの立て方自体が誤り(上手くない)だからだと思う。
『「やらない」のか「やれない」のかは他者に判断できないでしょう。』とも坪井さんは書いているが、他者でなく自分自身でさえも、いま行っていないそれは「してない」のか「できない」のか、は判断が難しい。
やってみたらできた、やってみたらできなかった、
有害な副産物について
まず「すべき、しないと悪い」と課し、その後で、無力な者には免除する、というこの建付けは、
「できない者」にさえも、「ああ、頑張ってやらないと!その『しない/できない』の線の向こう側へ頑張って超えないと!」と思わせるような効果・機能があるのではないか。この効果には、良い面と悪い面があると思う。
罪悪感
当事者の〈無力化〉
けむしのアプローチの提示
「できることをしよう」という呼びかけ標語ではなく、「何をするか?」(何のために何をするか(仮))という問いの形を私はとる。(採る、取る、私が形どる、私が問いに「なる」、)
「何をするか」というのは、一つには、問題対象のことである。
つまり、トピック的にも地理的にも様々にたくさんある社会問題のなかで、自分がいま(から)どこで何を(優先的に選んで)やるか。その優先性には、(倫理的)重要度の違い(についての価値判断)も関係してくるだろうし、単なる個人の好みも影響してくるだろう。
この点で、けむしがガザの差別・虐殺について、事態・問題について積極的に学んだり、具体的な抑止のために行動する、という選択を取っていない、ということはあえて明言しておく。これは、けむしの「傾向」によると思う(地理的遠さ、けむしのゼノフォビア、国際問題、「外」も「国」もけむしにとって「逆キーワード」のようだ)。
ちなみに、今話題になっている問題(それは問題が今深刻になっているということでもあるかもしれないが)について、時間軸の流れていくなかで、次々に乗っかっていくことへのけむしの違和感。(自身のツイッターの「流れていく」タイムラインを見よ!)もちろん、自分の(持続的に関わっていく)「専門問題」にも限りがあるので、「他者の運動に乗る、頭数になる」(マサキチトセ参照)ことそれ自体は重要だが、自分の「専門問題」を一つも持たずに、そういう運動のやり方を実践していくのは、あまり望ましくないと私は思う。
「何をするか」というのは、もう一つには、同じ一つの問題に対して、「何を」するかということ。
その問題対象に対して、どういう手段で、何をどう振舞うか。
1,その「何をするか?」の思考の過程で、「問題の核は何か、それの解決に最も適した方法は何か」、また例えば、一つの短期目標に向けて、日本政府に国連決議や外交活動に正しく参加させるために市民ができる最も効果的なことは何か(FAXを送ることか?)、といった運動理論研究(議論)が必要になってくるはずだ。ちなみに、けむしは常々「運動(実践)と(理論)研究は一体(でやるべき)だ」と言っている。
2,また、「何をするか?」の思考過程では、自身の信念の形どる「かたち」(をどうするか)、を考えることにもなる。その自身の信念の「現れ」は、振る舞いであり、何かの産出(つくり)であり、。
またそこでは(1や2とは別に、あるいは1の下位・2の下位として)、自身の得意な(特異な)ことを活かす、という要素も入ってくるだろう。
「運動の形は人それぞれ(で良い)」みたいな主張にけむしが乗れないのは、1の点を重視しているからであり、一方で、その者のできることーできないことや、2の点から、活動の(態様の)多様さは生じてくる(生まれてしかるべき)とも思っている。また、1と2が関連するという理論的立場もあり得る。つまり、様々な問題や人々について、取り残さず完全にかつ最短に解決するには、多様で同時並行的な実践が最適解で、だからこそ、そのバラバラさは許容、というかむしろ要請されるのだ、という理論はあり得る。(この理論が妥当かどうか、けむしはまだ判断保留。議論検討に値する重要な理論だとは思う。)
「何をするか?」の問いの前(空間的な面前、時間的な手前)には、問題だらけのこの世界がある。「私たちは常に間に合わないのだ。何を選択してやっても、(その間に別の)誰かは死んでいくのだ」、という現実が前提にある。
(この事実は、けむしに「間に合わせなきゃ」的感覚があまりないことと関係しているかもしれない。なるべく早い・最短であるほうが良いということと、〆切があるということとは異なる。)
この「常に間に合わない」ことについて、瀬戸マサキの以下記事も参照のこと。
https://masakichitose.theletter.jp/posts/30375420-70c7-11ed-ac54-8d1021900081
マサキさんは『間に合わな続ける』という語を使っているが、けむしのように「別の問題の」誰かが死んでいくという含意は想定していないと思われる。なお、けむしは差別によって毀損される「生命以外のもの」も重視しているので、(けむしにとって)「間に合わない」タイミングは死だけではない。
私たちは、二つ処(ふたつところ)には居られない。誰かの声(や沈黙)を聴いているとき、別の誰かの声(や沈黙)を聴くことはできない。誰かを見ているとき(例えば看取る=死に目に立ち会うとき)*、別の誰かを見ることはできない。
この根源的事実*は、誰(何)を選び・誰(何)を選ばないか、を私たちに決めるよう要請する。
*「見とる」と「看取る」の重なりについては、じん()の発見によると付記しておく。ところで、ただ今見ていないことと、「見放す」・「見限る」こととは、異なるとけむしは思っている。いっとき目を離したとしても(目を「掛ける」ことの中断)、見放さずに気に「掛ける」、ということはあり得ると私は思っている。
(*この根源的事実を、限界、と言って良いものか。ひとつをきちんと眼差すそれはむしろ望ましい在り方かもしれないとけむしは思う。ただ、モノアモリ―的言説に回収されないよう留意せよ。)
「何をするか?」という問いは、何にどう〈賭け〉るか、(掛けるか=自分の資源や労を使うか)ということでもある。「自分は何をするか?」「お前は何をするか?」という問いは、お前の自身の選択(のかたち)に、お前の自身の〈賭け〉に後悔すんなよ?、という問い/問われ、でもある。それはどの問題(誰・何)を選ぶかという点でもあり、どの手段を選ぶかという点でもあり、どの振る舞いのかたちを選ぶか(あるいはかたちを「とってしまう」か)という点でもある。
アプローチの比較議論
けむしのアプローチのほうがより「上手くいく」と思う。上手くいくというのはつまり、第2節で述べた問題性を(ある程度)回避することができ、かつ、他者を変える〈働きかけ〉の成功率も上がるのではないか(遅いがよく効く毒/薬)、ということ。
「できることをしよう」というレトリックは、表面のメッセージとしては、「しよう」という方向へつまり行動を促しており、裏面のメッセージとしては、「できないことはしようとしなくてもよい(できないのは仕方ない・悪くない)」という意味を含んでいる。・・・
問い(の立て方)を重視し、(取り立て屋ならぬ)「問い立て屋」を名乗ることもあるけむしは、「できることをする」だけではダメだ、と思う。ただ「できることをする」・「呼びかけられた特定のAをする」だけでなく、(できるなかで)より良いほうを選んでする、つまり、(問いを立てた上で、)より良い返答をする=より良い答えをつくることをしなければならない、と思う。
「できるけどまだしてないことがたくさんあるよね、反差別を信じ・掲げているなら、やらないとだよね」というような、「宿題潰し」的な捉え方
でなく、
今何をしているか、あるいはしていないか、をきちんと見る。。
「していない」ことでの活動もあり得る。つまり、不買運動やストなど、また、規範に乗っかっていない・逸脱した振る舞いをしている、(例えば無職であるがその人も「働いて」いる)、。
倫理や責任は確かにある、あるのだが、
宿題潰し(「しなければならない」)、でなく、君は「したい」はずだよね?
倫理・理念には同意する(その正義が実現された世界のほうがより良いと思う)けども、自分のコストを払って行動したくない、という人々は、実際には、「自分の周りでその不正義の影響が出なければ別にそれで良い」と思っている、つまりは本当にはその理念には同意していないのだ。本当に理念に同意していたら、「ぱっと問題解決しねーかなー、誰かやってくれねーかなー」と思いながらも、(そんなことは起きないから)「クソー、(自分が・我々で)やるしかないかー」と、したくてするはずだ。
もし、理念への同意が不十分で、「したい」レべルまでに達していないとしたら、その人に必要な働きかけは、「しよう」という「表メッセージ」の呼びかけではなく、意志の確認と変革である。つまり、自分には不利益がなかったり逆に利益があるような現状を「それでもダメだ、変えたい」とその人が思えるように、「強度ある」説得・振る舞いで、その人に私たちは〈働きかけ〉なければならない。
またもし、理念への同意は本当にしているが、「したいけどもできていない」/「したくないことをやっている」のだとしたら、その場合も、必要なのは、「できることをしよう」アプローチではなく(「裏メッセージ」で罪悪感をどうこうするよりも先に、)なぜそれが起こっているか、それを解決・変革するにはどうすればよいか、についての新たな「問い立て」だ。この点で、『他罰的・自罰的』でなければ、『出来ない理由』(したいのにしていない理由)について問いを立て、議論することそれ自体は意味・価値のあることだとけむしは思う(最後の5つ目の坪井投稿を参照)。
宿題潰し的アプローチ(「しなければならないから(そのすべきことのなかで)、できることをしよう」)は、理念を共有しない者たちに対しては、「いや、そんな責任=宿題は私にはない」と回避されてしまい効果を持たないし、理念を共有する者たちに対しては、もう共有していること(当たり前のこと)を繰り返しているに過ぎないし、「したい」ことなのにどこか押し付けがましい(課されている)感じもする。一方、「何をするか?」アプローチのほうは、理念を共有しない者たちに対しても、「おい、そのままで・こっちやらなくて後悔しないか?(「強度のある」眼差しに問われたときに、揺らぐ・後悔することにならないか?)」と説得することも射程内にあり、また、理念を共有する者たちに対しては、「より良い選択へと(常に)研ぎ澄ましているか?俺はこれを選んだけど、お前はどう?お前はこれをどこに位置づける?」という声掛け(監視でもあり、励ましでもあり、共鳴・連帯でもあり、より良い選択のための議論への開かれでもあるような、声掛け)となり得る。
「やらない言い訳」
「お前これやってないやん、やらんとあかんやん、」という方向を考えることは、もちろん、参与者の数を増やすという点では重要だが、けむしのような立場からしたら、「やってないけど?だから何や?(別のこと=自分なりの〈賭け〉をやっている)」となるわけで。
このとき、必要なのは、「これやってないですよね、やることを増やしてください」ということではなく、「お前は今やっているそれ(「何もしないこと」=悪への加担行為や、betterでないgood行為)をやめて、同じコストでこっちをやるべきや」、という他者への働きかけを私たちは志向・思考しなければならない。
そして「それをやめてこっちをするべき」と他者に呼びかけるとき、その説得は、悪から善への転向や、一つの問題解決についてどういう手段を選ぶか、ということだけでなく、どの問題を(誰を)選ぶか、ということにも働きかけることになる(ことができる)。つまり、場合によっては、「今お前が選んでいるその問題(その者)よりも、こっちを助けるために手を貸してくれ。なぜなら~」、という、かなり「強い」主張をすることを覚悟しなければならない。
(今の)自分ができないこと(あるいはできそこなうこと)をやっても、かえって「彼ら」(被害者などの問題直面者)に不利益になったり、無駄コストになったりする、ということを踏まえて考えれば、「他の人がやってる(自分にとっては大変な)あんなこともやらなきゃ、嗚呼できてない自分はダメだ」という「できてない罪悪感・後ろめたさ」のような方向性の思考は出てこないはずではないか、と思う。そうでなく、自分が十全にできることの中で、「何をやろうか?」を研ぎ澄まして考える。
あなたのすごさ(持つ資源の多さや努力、誠実さなど)の誇示や仲間内での評判のために彼らは困っているのではない。まず彼らがいて、問題解決のために動く我らがおり、結果的に評価が付いてくる。他の活動者=他のやり方を参照したり比べたりするのは、まず最初に見つめている「彼ら」や「問題(加害者である彼ら)」のためであるはずだ。
「自分にもっと資源があったらなあ」などを考える(考えてしまう)ことは、それ自体は、無価値・無意味なことではないとけむしは思っているが、彼らを救うために何かしら動ける「いま」、それを思考することで無駄になる時間・労があるのだ、ということを理解すべきだ。そうした思考は、彼らを救った後、あるいは救えなかった後(「悼み」*の際)にでもできるのではないか。「自分が医者だったらすぐ処置できるのに!」と「自分のできないこと」を考える前に、救急車を呼ぶために行動すべきなのではないだろうか。もしかしたらその『引け目』には、彼らを救いたい(問題を解決したい)ということではなく、「ちゃんとやってる自分」になりたい(他者に見せたい)、という別の欲望が入り込んでいるのでは、とけむしは疑う。
*(悼まれぬ者を)「悼む」ことが一つの〈抵抗〉になり得る、という立場はあり得る。その立場からすれば、「彼ら」を助けるため次々と忙しく動いていく間でも、「悼む」時間・労・コストを割くことは、無駄ではない。
自身のできないこととできることを見極める。できないことをできることにしていく。
もちろん、「何をするか?」という問いの立て方にしても、「できるーできない」の問題によって行為主体は制限を受ける。しかし、そのときあるのは、「『(できるけど)しない(→しなければならない)』と『できない』とをどう線引きできるか」という立て方ではなく、まず「何のために何をしたい」ことの方向性を定めた後で、「これに向かってしたいのだが、具体的な行為実践は何を選ぼうか(何ができるか)」という立て方。
→※何がしたいか?という問い(を考えること)において、その人のできるーできない軸が(その問いの返答に)影響するのでは。「したい」の後で「何ができるか」が出てくる、という順番で良いか?
「(不正義について)したいことがない、何をすればよいのか分からない」という状況にいる人々。
例えば、「問題」が見つからない、問題と思わない、楽しく人生を生きている人々もいるだろう。今特権にまみれているお前は、本当にやりたいこと(彼らを見つめるということ、ひいては正義の実現)がもっと他にあるはずなのに、まだ見つけられていない。それは哀れともけむしは感じる。(けむしの信念においては、あらゆる人が、「正しく適切に」学べれば、不正義を是正したいと自ら思うはずだ、そして自らの思う〈賭け〉・〈祈り〉の形を振舞う・「とる」はずだ、という前提に立っている。)
「(ある問題解決に向けて)こういうこと(特定の振る舞いA)をしよう」と呼びかけることの悪さ?
自分の祈り(のかたち)を見せること(「私はこれに署名しました」とかいう投稿)と、貴方もこれをしよう(このやり方・このかたちで祈ろう)、という呼びかけとの差異?
上記の記事での、インターセクショナルな視点の欠如。ある問題(誰か)を選びある問題(誰か)を選べない、という上記のけむしの論の書き方に反して、実際には、もちろん、複数の問題が重なっていたりすることはある。が、
じんコメントメモ
「はじめに」でこの文章が何かを簡単に書く。この文章の射程が分かるように。第1節の最後のを先に持ってくる?
「できることをしよう」という呼びかけの利点
「できること(what you can)について考えよう」という3つめのメッセージ
「できること」の複数性を考える
「できること」を考えさせる中で、呼びかけているそのA行為を食い込ませることができる、
けむしアプローチwhat you do
「すること」はひとつ(限られている)なので選ばなければならない、という点が重要。
https://ayakuram30.hatenablog.com/entry/2024/06/10/024418
誰かへの与えが命の選別であるということに自覚的である例
https://www.infernalbunny.com/entry/2024/09/20/220135