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個人的リプライ。ツイッターで長文かけないので例外的にこっち(scrapbox)に書いた。
『私が「差別についての勉強」を継続してできること、知りたい情報にアクセスすることができること、「差別についての勉強」が必要だとわかること、必要性を教えてくださる人と出会えること、私が受けた教育、その環境、私の能力、全て、私の特権です。/私はその特権に無自覚なまま、この特権は全員が持てるものだと勘違いし、「「勉強」ができないのは努力不足だからだ。誰しも、その気になれば勉強ができるのだ。」と差別を繰り返してきました。』
「能力」(という言葉で何を指しているのか不明だが、)を持たない人たちは、差別をやめるための「学び」ができない、という主張か?だとしたら不同意。
もちろん、「勉強しろ」とナイーヴに・一辺倒に言えてしまう意識の背後に、自身の特権への無自覚があり得ることは否定しないが、「あいつらアホどもはどうやっても学ぶことができないので、アホどもに『勉強しろ』と言っちゃうのは差別ですよね、ごめん」という意味だとしたら、私は大変に違和感がある。誤り、かつ、侮辱的だと思う。
『誰しもが「勉強」をし「理解」できる能力を持つわけではありません』という文が正しいとしたら、それは「勉強・理解」という言葉の狭義さによって正しくなっているだけだろう。今まで想定していたその「勉強・理解」を批判的に問い直す・拡げる、という方向を向くべきであって、(あるいは、「勉強・理解」できずとも、差別をしないように振舞うための「学び・感得」する方法はあるのではないか、という議論を拓くなど)、「そっか、あいつらには分かんないから言っちゃダメか、ごめん」という方向に行くのはよく分からない。(こういう言い換え内容は筆者としては意図していないかもしれないが、次に述べる問題のせいでこういう解釈ができるような記述になっていると思う。)
「経済格差・教育格差」の問題と「能力差別」の問題とが混在しているのが厄介。
今の社会において、経済的・教育的(学歴的)・能力的格差によって、差別を学ぶことについての格差があるのは事実。それに無自覚なまま発言していたのが差別加担である、というのもOK。しかし、それを「能力主義に基づく能力差別」とまとめることは妥当ではないと思う。(「能力差別」の「能力」という語の意を曖昧に拡散してしまう行いだと思う。)
『「勉強」ができないのは努力不足だからだ。誰しも、その気になれば勉強ができるのだ』という主張が誤りだということは、「勉強不足・勉強しろ」という言葉が能力差別にあたるとか、「彼らはどうやっても『能力的に』勉強できないんだ」とかいうことを意味しない(直結的に論理として導かれない)。
重要なのは、そうした資源(環境や能力)を持たない・乏しい人がどのように学べるか、ということだろう。「『勉強しろ』は能力差別でした、ごめんなさい」という謝罪で、その問いに対してどういう展開があり得ると考えているのか?
『言葉を選ぶ』ことももちろん重要だけれど、その問いと向き合う人たちの中に一緒に参加していってほしい。
あと、謝罪の罠にも留意。
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ついでにnekoさんも批判する。
まず、『日常会話を通じて手に入れる情報や電車の広告についてぼんやり考えてみる』という「勉強」さえもできないような人々の層は居ると私は思う(「ぼんやり考えてみる」ということへのハードル)。
『「勉強」ができる環境であることより、気付かなくて済む方に特権があると思う。』
「『勉強』ができる環境であること」と「気付かなくて済むこと」とは、(重なりつつも)別のことである。つまり、「勉強」にまつわる特権の有無・格差の軸がある一方で、マイクロアグレッションなど差別についての何らかに気づかなくて済むという特権性の軸がある(より正確に言えば、その中に各マイノリティごとの軸がある)。ゆえに、nekoさんがその「勉強」をめぐる格差に注意を払っていないという批判に対する反論として、「特権軸Aより特権軸Bのほうが特権がある」とかいう主張は機能しないと思う。(というか、ナイーブな「勉強するべき」という表現がマイクロアグレッションである、という論立てもできるかもしれない。妥当性はまた別として。)
nekoさんがちょっとケアレスだなと感じる側面は私もいくつかあり、例えば、nekoさんは世界に向けて発信しているんだろうけど(別に日本に向けて発信しているつもりは無いのだろうけど)、とりわけ、今の日本における英語普及状況(の貧しさ)とか、英語中心主義(英語帝国主義)など、どんぐらい踏まえて発言しているんだろう、とかは思う。(一般的発言も、英語の個別情報ソース提示も。)
まあ日本の日本語使用者にも、どでかいマジョリティ性あるとは思うが。
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nekoさんの返答受けて追記。
1,
まあ私も「『資源』のない者は全く思考できないんだ!」とまでは言わないけども、『考えたり思いを巡らすこと』自体が、時間的・精神的余裕、健康(例えば激痛や朦朧や生活不安から逃れられていること)、などの産物だとは(ある程度)思います。
あるいはもっと悲観的に言えば、「資源」のない者は、どれだけ自分一人で『ぼんやり考え』ようと、その自分一人の思考からは何も「学ぶ」ことはできない、という可能性さえあると思う。(いや、どうだろう、これはさすがに私も積極的同意しないかな。)
2,
『「気づかなくて済む」と「気づかせられてしまう」は「別」ではないと思う』という文意が私には取れないが、
(「気づかせられてしまう」というのは、差別されることによって、ということだと思うけども、)マジョリティ/マイノリティ、差別者/被差別者とで、差別について「気付かなくて済む/気付かされる」という非対称性があるという前提事実があるからといって、また別の一つの特権軸(「勉強」をめぐる)について考慮しなくてよいということにはならない。
「差別されるけども、差別について『正しく』認識・理解していない者」のことを考えてみよ。自身が被差別者層ではあるが、差別を差別として(悪として)認識していなかったり、自身でも差別的考えを「社会から学習」していたり、同属性の別の人へ差別行為をするような人がいる。このとき、〈彼〉(性別不問)は何を/に「気付いて」いるのか?〈彼〉は、被差別者層であり、ある面では「気づかされてしまう」が、ある面では「気付けない」=「学び」の特権軸の下層に置かれている。
以上のような人々の存在がある以上、『「勉強」ができる環境であることより、気付かなくて済む方に特権がある』とか、
『差別される人は差別とは何かを学ぶ機会のないゆえに差別を知らないで済む人よりもさらに弱い立場にいる』
こういう二元的単純図式には私は同意しない。
「勉強」の特権軸の話は、差別/被差別の「気付かされてしまう」非対称性の話とは別個でできる話だ。
「勉強」の特権軸の話を利用して、批判をかわそうとする差別者もいるかもしれないが、批判した相手(差別者)からの反論には、個別に妥当性を検討して再反論すれば良いだけであって、1つの特権軸の存在を丸ごと軽視する必要はない・べきではない。
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また、以下はとても注意して聞いてほしいのだが、
「気付かされてしまう」非対称性の話は、逆に言えば、そのマイノリティは、生きているだけで差別の存在には気付くことができる。一方で、マジョリティは差別を隠蔽・正当化しようと励む社会の中で何らかの気付く・学ぶきっかけがないとならない。反差別・社会運動を考える人(の一部)は、この「マジョリティ不利の非対称性」について考えても良いのではないか。(それができる・適格な人々が、非常に注意した方法・状況で。)
この学びの「マジョリティ不利」の話がなぜ重要かというと、マジョリティは差別にどう気付けるのか、という問題と関係していて、つまり、マジョリティは、根源的には、被差別者から語り・告発があってからしか差別に気づけないのか、という問いが、(私にとって重要なものとして)ある。マジョリティとしての(側面の)私のそうした無力感やもどかしさみたいなもの。そしてもちろんその問いは、私の個人的重要性だけでなく、被差別者の説明・告発コストの問題=語りの土台の非対称性の問題とも関係する、反差別論/運動にとって重要なことでもある。
こういう(良い意味での・必要な)コントラバーシャルな議題について、社会運動のために(反差別の仲間から批判される)リスクを負って本気で考えている・発信している人って、私は遠藤まめたさんくらいしか観測していないが。