なおすけ
渡辺直弼
2024/12/18
なおすけによって、「誹謗中傷」という名前のモデレーションリストに入れられる。
リストの説明は、「李琴峰さんに誹謗中傷をしたうえで謝罪してないアカウント」
スクショ済み。
名誉毀損でいけないかな。
2024/1/25 なおすけの複アカ?
「あれ」という名のモデレーション・リスト
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なおすけさんは「バイ差別」を批判されたのが相当ショックだった・腹が立ったようで、その私怨で、主張対立点を見つけては、批判してきた各個人や「反差別界隈」に嫌がらせしているようだ。(それ以前から別の要因もあるかもしれないが。トランスヘイターのアンチをすることにこだわって、小児性愛差別に足を踏み入れ、対立点となるなど。)(渡辺直弼名義のnoteの2023年8月以降のテーマの「変遷」も参照のこと。トランスヘイター叩きから、「反差別」叩きも混じるように。)
何にせよ、「バイ差別」について、「誤読」と自己主張しているので、検討する。当該ツイートは削除済みのため、上記そうすけブログ記事内のスクショを参照のこと。
1,
まず、当該投稿の『異性と結婚したバイセクシャルが同性愛の当事者ヅラして同性婚に口出ししてくるの極悪すぎる』という文言からは、その「口出し」が「(同性婚の法制化)反対」に限定されているかどうか判別不能である。文言だけ見れば、その「口出し」に肯定的意見も含めると解釈することは十分可能。(例えば、同性婚賛成派であっても、同性婚法制化運動に当事者として意見を言うな・当事者として参加するな、というふうにも読むことはできる。)
そうすけさんは、差別的な特定個人たち=『坂梨』や『森』などを念頭に置いているのだ、と弁護しているが、直前にそうした差別者の投稿をRTしてるなど、こういう文脈示唆があったのだ、という提示はできていない。
自分の意図したことが的確に言語表現化できずに、それが別の(妥当な)解釈をされてしまった、という悲劇は珍しいものではない。その「原因」を、発話者の能力不足にすべて帰すことはできないだろう。しかしもう一方で、そうした事例を「誤読」と断定し、読解者の責任にすべて押し付け、読解者を悪者化することは誤り・不当である。
2,
次に、この「口出し」が同性婚反対のことだという前提で、そうだとしても問題点があるのか、検討を進める。
そうすけさんは、弁護・擁護として、1),自身が婚姻制度の利益を受けておきながら、他の人にはそれを許さないという悪さ、2),自身も当事者でありながら、その当事者性を利用して、差別に加担する(差別の存在を否定したり差別の存続を主張する/撤廃を否定する)という悪さ、の2点を挙げている。(そうすけブログ記事の「なぜ同性婚に反対する『既婚バイ』が、問題なのか」の節を参照せよ。)
これらの悪さは、(同性婚に反対する)異性と既婚したバイセクシャルに限らず、悪さ1は、同性婚に反対する既婚の異性愛者にも言えて、悪さ2は、同性婚に反対するゲイにも言える。ただ、このとき、悪さ1を持つ既婚の異性愛者は、悪さ2の当事者性を持つことがなく、悪さ2を持つゲイは、悪さ1の婚姻制度を利用していないことが多い。(※異性と既婚したゲイの存在については後述。)したがって、異性と既婚したバイセクシャルは、悪さが重複する位置に(原理上)いる、ということは言える。こうした二重の悪さを説明されれば、その悪さの重複性に基づいて、なおすけさんも単なる「悪」でなく『極悪すぎる』と表現したのだろうと後から解釈もできる。
こうした悪さの重複・加重についての指摘は、適切な表現でなされれば、事実でしかない(問題がない)。
では、当該投稿表現の問題点はどこだろうか?
『異性と結婚したバイセクシャルが同性愛の当事者ヅラして同性婚に口出ししてくるの極悪すぎる』という表現の、『当事者ヅラ』という箇所に着目したい。
「~面(づら)」という単語は、「~」の単語そのものとは意味合いが異なってくる。「~のような顔をして」ということは、「実際は~ではないのに」という意味を含んでいる。例えば「被害者面して」と言えば、「被害者ではないのに、被害者ぶって」という含意を持つ。では、『異性と結婚したバイセクシャル』が『同性愛の当事者』かどうか、考えてみよう。なお、当該投稿では、「同性婚の当事者」ではなく、『同性愛の当事者』と書かれていることに留意せよ。
まず、バイセクシャルは当然、同性愛の当事者であると言ってよいだろう。バイセクシャルのセクシュアリティの中に同性愛の要素がある以上、『同性愛の当事者』であることは間違いないし、同性婚イシューの当事者であることも間違いない。それでは、異性と既婚したバイセクシャルは『同性愛の当事者』かどうか?これもYESと言って良いだろう。「異性と結婚した」からといって、バイセクシャルの同性愛要素がなくなるわけではない。(そうした、結婚相手の性別によってバイセクシャルのセクシュアリティが「変更」される・限定的確定される、というのは、誤った偏見である。)
また、「異性と結婚したバイセクシャルは(もう)同性婚の当事者ではない」という誤解についても、ここで誤りを指摘しておこう。ゲイ・レズビアンは、パスする(=異性愛者のふりをする)ためなどの理由から、異性と(恋愛的でない)結婚をすることがある。(それは契約婚だったり友情婚だったり、なかにはゲイネスを相手に隠したままでする場合もある。)そのような「恋愛的でない異性婚」をした同性愛者たちも、そのことを以て、同性婚の当事者でなくなるわけではない。そうした異性婚は不平等の結果にすぎず、むしろ彼らが当事者であるから、そうなっているわけである。同様に、「恋愛的でない異性婚」をしたバイセクシャルも、既婚後も引き続き、同性婚の当事者である。そして、「恋愛的な異性婚」をしたバイセクシャルも、同性婚の当事者である。一度結婚したら、その一人の相手とその後一生を共にする、というのは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに基づいた神話である。そうした神話を支持しない立場からすれば、恋愛的な異性婚をしたバイセクシャルも、その後同性婚をする可能性は十分にある。(異性と離婚して同性と再婚する場合はもちろんのこと、ポリアモリー的パートナーシップもあり得ることに留意せよ。)ゆえに、同性婚に反対する既婚バイセクシャルについて、「悪さ1),自身が婚姻制度の利益を受けておきながら、他の人にはそれを許さないという悪さ」を指摘する際に、それが、「もう自身は同性婚と関係がないから/関係がないのに」というように誤ったスライドをしないよう注意すべきである。
したがって、『異性と結婚したバイセクシャル』は、同性愛(同性婚)の当事者である。そして、『異性と結婚したバイセクシャルが同性愛の当事者ヅラして』という文言は、当事者である『異性と結婚したバイセクシャル』を、『当事者ヅラ』呼ばわりすることで、「実際にはそうでないのに」という含意によって、当事者カテゴリから排除している、ないし、当事者の周縁に置いている。この問題点は、「異性と結婚したバイセクシャルが同性愛の当事者ヅラして同性婚に反対してくるの極悪すぎる」という表現であったとしても、変わらない。
もしかしたら、なおすけさんが『同性愛の当事者ヅラ』と言ったとき、上記のような「そうでないのに、」という含意を想定していなかったかもしれない。悪さ2の、「マイノリティ当事者であるという属性を前面に持ち出して、利用して、(差別支持する)」という意味を意図して、「面」という語を使った可能性はある。しかし、もしそうだとしても、上記のような悪さの重複を適切に・十分に説明することなく、言葉足らずにそうした表現を使ったことによって、当事者そのものを「当事者ヅラ」と呼ぶ理由を読解者に理解してもらうのが非常に困難になっている。(ので、読解者は、「面」の一般的な語の意味と、バイセクシャル差別が流通しているこの社会の意味連関リソースを参照して、解釈することになる。)
また、以下のなおすけさんの投稿も気になる。
『いや、既婚バイセクシャルが当事者性を振りかざして同性婚に反対している事自体に異性愛者やゲイにはない特有の有害性が実在しているでしょ。そこは否定しちゃいけないとこだよ。 異性愛者は当事者性を振りかざさないし、ゲイは異性婚があるからなんて言わない。』
けむしが上記で書いた二重の悪さの説明と読み比べてほしいが、同性婚に反対しているゲイは悪さ1を持たない(婚姻制度の利益を受けられない、あるいは、契約婚はできてもパートナーと恋愛的な結婚ができない)という点を述べる際に、なおすけさんは『ゲイは異性婚があるからなんて言わない』と述べている。こうした、「バイセクシャルは異性愛(/異性婚)という既に認められた(スティグマのない)選択肢があり、公然と同性愛関係(/同性婚)ができなくてもそっちに『逃げ』られるから」、といった認識、そしてそれに基づく、バイセクシャルの「蝙蝠さ」を非難するような言説は、バイセクシャル差別でよく見られるものである。バイセクシャル自身が「異性婚があるから」と言う事例・場面が存在するにしても、同性婚に反対するゲイとの差異を説明する際に、そのような表現を使う必要はない。この投稿でも、かなり不用意な表現をしている。
ちなみに、バイセクシャルに関心がある人は、青山薫の論考「『バイ・セクシュアル』である、ということ」『身体とアイデンティティ・トラブル』2008年,「「『バイセクシュアル』である」と、いうこと」再考 (『現代思想』2015年10月号に所収)も参考になるかもしれない。
以上、1,2,を踏まえると、『異性と結婚したバイセクシャルが同性愛の当事者ヅラして同性婚に口出ししてくるの極悪すぎる』という当該投稿の問題点としては、以下のように言える。最大限に擁護的に見れば、実際にいる差別的な特定個人への批判(愚痴)に際して、二重の悪さを指摘しようとして、表現の不十分さから、たまたまバイセクシャル差別のweak spotと重なってしまった。つまり、悪さ2点を1文で分かりにくくまとめてしまったことで、「その人自身は既婚である」という要素と「同性愛の当事者性」の話とが繋がってしまった。それにより、社会にあるバイセクシャル差別をなぞる・反復する=肯定・強化するようなものとして(妥当な)解釈が可能な表現になってしまった、と。
逆に悪く見れば、なおすけさんにバイセクシャル無知・軽視・差別的意識があって、それに基づいてこういう表現が出てきたのだろう、とも見れるが、そう捉えずとも、上記の点で、問題点の批判的指摘は十分できるだろう。
そのように擁護的に捉えたとしても、発話者の意図と異なる解釈の妥当性が否定されるわけではなく、表現のもつ差別反復的効果は否定できない(無くなるわけではない)。「誤読」、つまり、妥当性に欠ける異なる解釈というのも当然存在するが、発話者の意図と異なる、妥当な解釈に基づいた批判に対しては、「誤読」と反論すれば批判点が無効になるわけではない。なおすけさんの言動の問題性としては、当該投稿自体の問題性よりむしろ、批判を受けた後の、批判への向き合い方(不当な批判と妥当な批判との切り分け方や、妥当な批判への向き合わなさ)に強い問題性があるだろう。もちろん、多数から一気にどっと来た批判を上手く切り分けられるかどうかというのは、誰にでもできることではないだろうし、SNSのシステム自体が、そうした切り分けを困難にしている、という側面はあるが。
2024/6/27
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「差別に反対する人にばかり"攻撃"している一方で差別主義者等とは戦わない」といった批判
こうした批判の前提には、「すべての反差別活動者が、活動者間の相互批判よりも、差別主義者のほうへの批判により多くコストを割くべきだ」という隠れた主張があるが、けむしは別にそれに同意しない(倫理的に賛同必須な主張であるわけではない)。別に全員が一定の同じようなコスト割合配分で社会の差別と闘う必要はない。全体としてどちらかに偏って、右翼とかの固定的差別主義者への批判が全くなされないとか、活動者間の相互批判が全くなされない、とかいうのは問題だろうが、そういう前提事実を批判側は示せていない。差別主義者との戦い方は(SNSで見える部分以外でも)色々あるだろうし、相互批判のほうを優先する理由論理もいくつか考え得るだろう。要は各活動者の(妥当な範囲内の)スタンスの問題にすぎない。
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