けむしのコメント
1,
『誤った使い方の例:
「ニューロダイバーシティは…と主張している」
この書き手は、おそらくニューロダイバーシティ・パラダイムまたはニューロダイバーシティ運動について述べようとしているのでしょう。ニューロダイバーシティは人類に見られる生物的な特徴であり、「主張」することはできません。これは「人間の肌の色のちがいが何かを主張している」と言うのと同じくらい、おかしなことです。』
「主張」は、原文では「claim」を使っている。
『“Neurodiversity claims that…”
This writer is actually trying to talk about either the neurodiversity paradigm or the Neurodiversity Movement. Neurodiversity, as a biological characteristic of the species, can’t “claim” anything, any more than variations in human skin pigmentation can “claim” something.』
文章の主旨は分かるのだが、比喩的に、非生物が「主張する」と表現することもあるので、混乱した。実際は、非生物=「それ」が主張しているのではなく、「それ」が意味することを人々が読み取っている(読み取れると言いたい)、ということなのだが。
例えば、「ニューロダイバーシティという生物学的な事実が、何かを意味する」、とか、「肌の色の違い(バリエーション)が、何かを意味する」、ということは、実際あり得るし、「この黒い肌が~~と主張する」といった比喩的表現をあえてすることが(当事者や運動にとって)重要なのだ、という場合はあり得ると思う。
したがって、「not ~ any more than ~」構文をどう訳すか難しいが、それを「おかしなこと」とする翻訳が最善と言えるかどうか、私はためらう。
むしろ、「claim」を「要求する」と訳したほうが、上記の問題回避になるかもしれない。「claim」の適切な訳語が、日本語領域に(まだ)存在していない、という問題はあるが。
2,
誤字を発見しました。
『 「ニューロダイバージェント」と「ニューロダイバージェント」という言葉は、2000年に、複数のニューロダイバージェンスを持つニューロダイバーシティ運動の活動家、カシアネ・アサスマス(Kassiane Asasumasu)さんによって作られました。』
ふたつめ の「ニューロダイバージェント」は、「ニューロダイバージェンス」の誤記でしょう。原文も確認しました。
3,
『誰かが自閉であることを伝えたいのであれば、「その人は自閉です」と言ってください。「自閉」は、使ってはいけないような言葉ではありません。』
『 If you mean that someone is autistic, say they’re autistic. It’s not a dirty word.』
「オーティスティック」がダーティ・ワードではない、ということには同意するし、別に「自閉」も、『使ってはいけないような言葉』ではないのだが、autismの訳語である「自閉」という言葉が、ネガティヴな誤解を生んできた(いる)、という指摘が存在しているということに留意してほしい。
『Autismはギリシャ語で自己を意味するautosを語源としており、外部の力や操作によらず自律的あるいは自己完結的に動くニュアンスだ。』とあるように、例えば生物学などでは、細胞が「自閉的」「閉的」という語は、別にネガティヴな含意なく使われていたりするのかもしれない。
とはいえ、言い換えを模索している動き・人々もいるので、日本語訳版にのみ、何らかの注釈を付けてほしいかな。
他の箇所では、『オーティズム(自閉)』『オーティステイック(自閉)の人々』というように併記している箇所もある。ここでも併記してくれたほうが、良いかも。
4,
『「私たちの学校は、自閉、ディスレクシア、その他のニューロダイバージェントの生徒を包みこむことを目指していますが、まだ十分に対応できていない種類のニューロダイバージェンスもあります。」』
『be inclusive of ~』を「~を包み込む」と訳すのは、あんまり こなれた表現ではないと感じる。
もちろん、「包摂的」「包摂する」という語が分かりにくいという点はあるが、「包み込む」だと、悪い意味で「マイノリティにそっと優しく触れ合う」というような意味が付いてきてしまうと思う。
私なら、「排除しない」とか「平等に受け入れる」とかに するか。
以上。
なお、もし今後に翻訳を修正することがあっても、指摘や訳語提案のクレジットにけむしを出すことは不要です。
ーーー
『「自閉」という言葉を「クィア」みたいに取り戻したらいいんじゃないかと個人的には思っていますけど…。自閉という訳語に触れないまま「AS」などのわかりにくい略語に隠してもあんま意味ない気がするし』
『「自開」より「自閉」のほうがずっと落ち着きますよ…きちんと境界がある感じがする。そもそも「陽キャ=善」という価値観がどうなのと思いますし』
もちろん、上のような意見も、一つの(正当な)立場として、あり得る。
また、『「陽キャ=善」という価値観』(陰キャ=悪という価値観)に反対しながら、同時に、「閉」的イメージ・陰キャ的イメージが「そもそも、多様な自閉者の実態に反する」という主張は可能だと思う。(もちろん、自閉特性としてそうした「陰」的当事者もいるということは否定しない。)「自閉」の語への異議申し立てが、『「陽キャ=善」という価値観』を必ず前提にしている(前提にしないと異議が成立しない)というわけではないと思う。
「名づけ」(の変更)については、当事者からの、たくさんのいろんな意見が出されるべきだと思います。