Untitled
誤字指摘
『人生を披露させていくものだ』→疲労?
『*1:伊藤迅亮との指摘な対話に基づく(伊藤 2023)』→私的?
コメント
1,
『しかし、ストリンガーの方法説には問題がある。それは、愛の騙りを見抜けない可能性が高いことだ。
例えば、ある人が、「お前のことを愛しているから叱ってやっているんだ。これがわたしの愛する仕方なのだ」と暗示的にせよ繰り返し主張できてしまう。しかし傍からみれば、それは愛というより明らかに支配欲の表出であり、ちっとも幸せをもたらさなかったり虐待的であったりする。』
フェミニズムの議論蓄積から言えば、そもそも「愛」と支配・暴力は背反ではない。
したがって、支配や暴力など不正義が含まれているから、それは愛ではない(騙している、嘘だ)、という方向で理論立てするよりも、そもそも「愛」概念は無謬のものではなく、不正義的行為も含まれ得るものだ、と理解したほうが良いのでは。それは愛を「盾にしている・隠れ蓑にしている、愛として正当化している」というよりも、実際に支配や暴力という形でしか愛せない人々がいるのでは、という。そうした判別は、その人がDV相手とは別に「本当に愛する」者・物がいるのか、ということを見れば一助になる。「本当に愛する」別の者には別の愛の形を捧げ、DV相手には「これが私の愛の形だ」と言っていたら、それは嘘になるが(*同じ主体でも、対象ごとに愛し方が異なるということも考え得るが。)、そうでなければ、支配がその人の愛(の表出)である、支配以外の愛し方を知らない、もっと言えば、愛し方を知らず愛する物も何もない、ということもあり得るのでは。
『支配欲の表出であり、ちっとも幸せをもたらさなかったり虐待的であったりする』ことは、それが愛であることを排除しないし(もちろん排除的定義もできるが)、愛であることはその表出行為を正当化しないのだから、ナンバユウキが上記のように、「愛」概念の「聖化」の維持に加担するような理論構築をしようとしているのは、問題であると思うし、ちょっと意外でもある。
愛と暴力を対立的に置くことは(つまり「それは愛ではなく暴力だ」とするのは)、「これは愛であるので暴力ではない」という既存の「常識」の裏返しでしかない。
2,
『「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができるという「愛のニーズ応答説」』
『愛のニーズ応答説:「このように私を愛して欲しい」という私の愛のニーズに対してあの人が応答してくれるならばあの人は私をほんとうに愛していると私は知ることができる。
愛のニーズ応答説は、私の愛のニーズに相手が答えてくれるかどうかによって愛を知ることができると主張する。例えば、私に叱る人に対して「そういう叱り方はやめて」であったり「その指摘はおかしい」というニーズに対して応答してくれるならば、私を愛していると知ることができる。』
『愛のニーズ応答説は、私の愛する行為について想定を前提にしている点で議論の余地があるだろう。しかし、どのような関係においても、自分のニーズに対する応答があるかないかによって、ほんとうに愛しているかを判断することは案外容易にできるのではないか。あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るのは簡単である。あの人が私の想いを聞き届けてくれるかどうか、ただそれだけなのだから。』
『私に叱る人に対して「そういう叱り方はやめて」であったり「その指摘はおかしい」というニーズ』とあるが、『愛のニーズ』とニーズ一般をどう区別するのかが疑問。
『私の愛する行為について想定を前提にしている点で議論の余地がある』と言っているのは、「このように私を愛して欲しい」と言うときの、望む愛する行為というものをその人が想定していないといけない(という課題点)、ということだろう。例えば「どういうふうに愛してほしいか分からない」という人もい得る。また、そもそも「こういうふうにしてほしい」と「こういうふうに愛してほしい」とをどう区別するのか、という問題。
ナンバの「愛のニーズ応答説」を採用すれば、例えば、DVで支配-被支配関係にある被害者が加害者の様々なニーズに応えている場合に、加害者は「あいつは私を愛している」、被害者は「私はあの人を愛しているんだ」と理解してしまうが、それで良いのだろうか。これは、『ニーズの真正性』とは別の問題として存在していると思う。
この問題点は、DV関係という対等関係でない特殊な事例だから理論上問題が生じるんだ、という由来よりも、上記の『愛のニーズ』とニーズ一般の区別の問題由来であると思う。ナンバの説は、ニーズ一般への「応じ」が、様々な状況的利害などによって(も)生じ得るのだ、ということが十分に上手く考慮できていないと思う。つまり、DV関係に限らず、対等関係でも、本意としてはしたくない部分もあっても、いやいや応じることを自ら決める、ということは現実にはある。(その譲歩がまさに愛である、という派閥もあり得るだろうが。)ニーズ一般で考えるならば、なぜ「私」のこのニーズに応えてくれるのか、という理由は、「私」への尊重はもちろん一部にあるだろうが、「愛」以外の理由が、状況ごとに様々あり得ると思われる。
『私達は常識に訴えることも避けたいと思う。なぜなら、私が愛する人は私が常識に従って判断すべきものというより、何よりもユニークな私とあの人の関係のなかで判断されるべきものだからだ。』
『同時に、愛のニーズ応答説は、つねにあの人と私がコミュニケーションの関係にあることを強調する。私のニーズに対して、あの人のニーズもまた表明され、互いのニーズの落ち着きどころを日々探っていくことになる。この努力や気遣いの過程のなかでのみ愛する行為は可能になるのだ。それゆえに、あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るためには、私もまたあの人をほんとうに愛していなければならない。現実の愛は、交渉の不必要な作り事の愛とは異なるのだから。』
『ユニークな私とあの人の関係』は、独自に切り離されて存在しているのでなく、この現実世界の社会のなかに存在している。したがって、ニーズへの「応じ」も、その社会状況や個別の状況も含めて考えられるべきだと思う。
『それゆえに、あの人が自分をほんとうに愛しているかどうかを知るためには、私もまたあの人をほんとうに愛していなければならない。』という部分は、よく理解できなかった。
3,
モノアモリー的な想定にならないよう注意。
4,
いわゆる「試し行為」は、その要求行為自体は真のニーズでなくとも、相手を試したいという真のニーズに基づいているのだから、単にニーズの真正性の問題というよりも、もう少し複雑な理論構築が必要なのではないか。
ーーー