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いずみのかな
睡(sui)がRhunadanをブロック。(プロフィールに『個人(こじん)アカウントなので、気分(きぶん)で、めっちゃブロックします🧱』と追記。)
『倫理のタガを外して「遊び」をするおとな子供』
『「おとなの にんげんとして ふさわしくない おとなを ようち、 みじゅくと よぶ」 はいごに ある、 「ねんれいそうおうの ふるまいを せよ」 「ねんれいそうおうの のうりょくを みにつけよ」って、 めちゃくちゃ はったつしょうがいに たいして よくあつてきじゃない?』
『大人の振る舞いを出来ないものを未熟と呼ぶことの背後には年齢相応の振る舞いや能力を身に着けろという思想があり発達障害に対して抑圧的ではないか、という一見思いやりがある言葉に対しては、私は明確に違いますと言い切りたい。大前提として大人として無責任な振る舞いをすることは未熟であり、発達障害であっても大人として振る舞いの責任は発生する。それを能力や抑圧とするのはあまりよい言い換えではないかな…』
『何より、発達障害に理解を示そうとするあまり、例えると発達障害なら暇を公共で持ち上げる振る舞いをしててもそれを未熟というのは抑圧の現れでは、という論理になってしまってしまうのはさすがにさすがに…。
定型かつ健康な人基準の能力主義と発達障害含む障害は抑圧の側面が強いが、振る舞いの愚かさや無責任さの引き受けも抑圧と理解されると、いや大人扱いしてくださいよ…となるんだなあ…私はですが…』
(※けむし補足。「暇」とは「暇空茜」のことだろう。)
いずみのかなさんが、批判されている点を理解できていない=『大前提』自体が批判的に問われているということを理解できていないため、「なに?発達障碍者には倫理的責任を免除する=社会成員資格membershipを認めない=『大人扱いしない』というのか!」という誤認識が生じている。
※「membership」概念。つまり、「子供」や「病者・障碍者」などは、「まともな」社会構成員ではない、2流の市民である、という扱いを受けることによって、平等な自由や権利を制限される(得られない)代わりに、社会の成員としての責務も課されることがない。そうした扱い(membershipの剥奪)は、社会成員として扱ってしまうとかえって彼らに不利益だから、というパターナリズム的視点から、なされることもある。
『もんだいの ある げんどうにたいしては、 それを 『おとな-こども』 『せいじゅく-みじゅく』といった しいてきな じくに かたくせず、 もんだい そのもの、 あるいは その げんいん そのものを ひはんすべきだ』
Rhunadanさんは、『大前提として大人として無責任な振る舞いをすることは未熟であり、発達障害であっても大人として振る舞いの責任は発生する。』という「前提」について、倫理的責任のことを「大人としての責任」と呼び、倫理的責任を果たさないような=非倫理的な振る舞いを「未熟」「子供(おとな子供)」と呼ぶその言い換え自体を、批判的に問うているわけだ。
非倫理的振る舞いのことを、「あるべき姿に(まだ)ない」ということを経由して、「未熟」と言ってしまうのだろうか。不思議。