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『 「さべつしゃの いう ことは いつも おなじだ」というのが あるけど、 わたし それ きいて ぎもんに おもっちゃったのが、 それを ひはんする ひとの いう こと やる ことも きほんてきには おなじなんだよね
べつに それが わるいという はなしではなくて、 ふへんてきな はなし、 いっぱんてきな はなしなら とうぜん だれがしても おなじような はなしに なるわけでも あるし、』
繋げて論じていいのか分からんが、「反差別(思想・運動)も、差別に反対しているということは、差別者の鏡像なのだ」というような理解、つまり、Aの反対のA´(エーダッシュ)をいつも同じようにしている、とか、反差別は原理上、差別に「依存」しているのだ、とかいうような言説を見かけることがある。これはまあ言わんとすることの半面は同意するのだが、半面は全くの誤りだと私は思っている。
というのは、差別というものが、硬直的、同型的、反復的で、(本来は多様で豊かな)現実世界を歪めて・切り詰めて認識させるような枠組み・営みである一方で、反差別は、その本来の豊かさ、差異性・他者性や自由、創造性といったものを根源的に想像・想定し、それらを引き受けた上で、おこなうものだから。ゆえに、反差別思想には根源的にそうした(思想的)スタンスが必要不可欠だと思うし、また、思想だけでなく実際の活動においても、反差別の営みは差異的、創造的、豊かなものである。反差別は差別への批判的主張などは同型になりがちであっても、差別(的認識)がいかに誤っているかを論証する(あるいは、なぜ平等に扱うべきなのかを説得する)際には、例えば「女性」や「黒人」「障碍者」「同性愛者」といった被差別カテゴリーが実際にはいかに多様で豊かで、差別的想定を裏切るのか、といった現実世界を提示(描写)することになるだろう。けむしにとっては、そうした反差別の営みが、差別の単なる反転像だとはどうにも思えないのである。
そして、そうした上記の(反差別の)根源的スタンスは、けむしの定義する(本来の・理想の?)「オタク」像とも関係している、。(批評的かつ想像的/創造的なオタク)
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