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3.1のまる3、まる6、3.2のまる4に異論。
『③本人の理解・判断能力が充分でない場合は安楽死を認めないことも重要です。
ここで、日本の現行の教育カリキュラムにおいて倫理について本格的に学ぶことができるのが高校の地歴公民であることに着目する必要があります。
自身の安楽死について医師などから受ける説明を理解し、判断する能力は18歳未満の児童のほとんどが有していないことに留意が必要です。
また、判断能力の低下が既に進行した重度の認知症患者においても、安楽死を認めるべきではありません。』
まず、それが「自己決定」であると言えるには、一定の『能力』ないし条件状態が必要である、という前提には同意する。が、『理解・判断能力』が低くても、自己決定と言えるのではないか。理解・判断能力が低くても、よく考えて、自己決定する、ということはあり得ると思う。子供や障碍者、教育を受けていない者らの「自己決定」が、パターナリズムによって、剥奪されてきた(されている)ことを直視・重視すべき。「あなたのそれは自己決定ではない、あなたは自己決定できない」という線引きは、かなり慎重になされるべき。
『自身の安楽死について医師などから受ける説明を理解し、判断する能力は18歳未満の児童のほとんどが有していない』とするならば、『重度の認知症患者』に限らず、大人の知的障碍者の一部も「そちら側」に含まれるだろう。けむしの私見だが、こうした(18歳という)画一的線引きを採用する者は、子供の能力を(実際より)低く評価しているか、または17歳の健常でよく教育された子供よりも『理解・判断能力』が低い大人が大勢居る(その線引きは想定以上の者を切り捨てる)、ということに気付いていないか、のどちらかである。
『理解・判断能力』ではなく、年齢(重要な判断に関わる人生経験の長さ・蓄積)が重要だ、という論理建てのほうがまだ理解できる。
「自己決定ではあるが、軽率な自己決定」の予防は、まる4の、何度も確認することによってカバーすべきであろう。
『地歴公民』て、高校行ってない人についてはどう考えるねん。
『⑥裁判の進行を阻害せず、また司法判断を無効化しないことも重要です。
刑事裁判・民事裁判の原告や被告、裁判官や弁護士などが裁判の途中で死亡した場合、公正な審理と判決が行われる可能性が大きく低下します。
そのため、こうした裁判の当事者や裁判が予定されている人には安楽死を認められるべきではありません。
ベルギーでは刑事事件の受刑者が安楽死を受けるという事態がありました。しかし、これは司法判断や罪を償う責任を軽んじた判断だと言えます。
受刑者への安楽死は認められてはなりません。』
同意しない。まず、元記事の最初のまる1で書かれているように、自死については本人に自己決定権があり、それは人権の一部なのであるから、他の事情よりも優先されるべきはずである。
したがって、係争中の裁判官や弁護士などであるからといって、人権を制限するということが正当化されるはずはない。速やかに適切な代替員に交替・引き継ぎできるような制度にしておく、といった方法で『公正な審理と判決』を担保するべきである。
次に、原告や被告の場合。今の法制度でも、原告や被告が裁判係争中に死ぬということはあるわけで、そういう場合にどうしているか、どう対応、ないし「法理論上、諦め」ているか、ということをきちんと参照すべき。あり得る議論としては、例えば、訴えを起こした原告が自死した場合、それは裁判結果の利益/不利益を受け取らないという選択をした、ということだから、裁判を継続する必要がそもそもない、とか。また、相続する権利の一部として、遺族が替わって原告や被告になることはできる、とか。
次に、受刑者の場合。現行の法制度が「死者には(もう)罰も益も与えることができない」という前提に立っている以上、罪を償わせるために、一定の人権を制限したい(けど良いか)、という論点は出て来うる。これは、どこまでを罰としているのか、という点から考えるべきであろう。つまり、受刑者に課されているのは、(長期的に)一定の移動や行動の自由(身体の自由)を制限・剥奪し、かつ一定の行動を(強制的に)おこなわせる、という罰であって、より下部の(根源的な)、生死に関する自己決定権を奪うことまでが罰に含まれているわけではない、のではないか。このあたりの、受刑者の死と償いといった論点も、既に法学の領域において議論がなされているので、参照すべきだろう。
『④安楽死後の遺体の臓器を移植することは禁止すべきです。
一部の国では、臓器移植を目的として安楽死を奨励する医師がいるという話を聞きます。
このようなことを防ぐために、安楽死した人の臓器を他者に移植することは一律禁止とするべきです。』
死後にどのように扱われるか(特に自己身体を)ということも、自己決定権の一部であると思う。ゆえに、臓器提供を望む者が、死因が安楽死だからという理由でそれが禁止されるというのは不当である。自己決定へ介入する悪いパターン(臓器を目的に安楽死へ誘導するとか、移植提供を望まない者の臓器を死後こっそり持ち出すとか、)は、あくまでそれ自体を防ぐべきであって、その予防のために別の部分で当人の人権を制限することは、良くないだろう。
不当な臓器売買に(社会政策上)どう対応していくべきか、という議論も、(主に海外で)既に蓄積がありそうな気がする。
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