複数の論点が出てきたので、整理しながら述べたいが、
1,
『「めんどくささ」を見つめ直すのに必ずしも表明が必要なのだろうか?』
むしろ、表明をせずにどうやって見直しや解体をしていくのか。表明を一律に「すべきでない」とし、内心に留めさせ、差別者一人で独自に自己変革をさせようというのは、現実的ではないと思う。
2,
『建前を失い「めんどくさい」という"本音"が大っぴらにマジョリティに共有されるようになったとき、問題の解体でなく「めんどくさいからやめよう」という方向に向かう可能性は少なくないのでは。』
「本音」が公に共有されるようになっても、「建前」が失われることには必ずしもならない。(「建前」というか、畑さんの元投稿でも触れている通り、「面倒だ」という本音と、「やるべきだ・やりたい」という「アライの本音」は両立する。)そうした「建前」の瓦解が起こるかどうかは、他の社会状況要素による。
面倒さを表明しなくとも、現状、マジョリティはやるかやらないかの選択権を優位に持っており、多くはやっていない(もうやめてる)。表明を一律に禁じなければ「めんどくさいからやめよう」という人が増える、という仮説は、論証にその他の材料がもっと必要だと思う。
3,
『手間やコストの存在は無視できないとしても、「こうすれば手間を減らせるのでは」などアプローチの方法は他にもあるわけで…』
「面倒だ」「手間が多い」という表明なしに、どうやって、「手間を減らそう」という発想や議論が起こるのか。
4,
『~は心理的安全性に大きく関わるし、「傷つく」で片付けられるようなものではない』
「(心理的)傷つき」という概念は、幅広いものであり、「心理的安全性に大きく関わる」ものも含まれる。miuraさんの中で、「傷つき」というのは軽いものを指す、といった独自前提を置いているのだろうと思う。批判の論立てに、暗黙の独自前提を使用されると、けむしは応答できない。
(心理的安全性という語も、強い害を必ずしも意味せず、幅があるとは思うが。)
4関連追加,
また、当事者の心理的安全に関して従来からけむしが思っているのは、心理的安全性は差別者の表明の有無それ自体だけでは測れないだろう、ということ。つまり、例えば、A)多くのアライがおり、差別意識を持つ人がそこにいるという現実を見据えながらも、その誤りを主張し、その意識変革・解体に向けて労を割き、という、「差別的表明が聞こえる」状況と、B)アライたちが差別的意識の存在自体を否定し、あるいは存在は認めるけども表明を禁じ、表出さえしなければそれで良いとする、「差別的表明が聞こえない」状況とでは、Bのほうが心理的安全を感じられないと思う。(少なくとも、けむしにとっては、そう。)
5,
『車椅子でエレベーターを使っているとき、籠内でそこかしこから(他意なく)「詰めるのめんどくさ」とか聞こえてくるような社会は生きづらい。』
表明を一律に「すべきでない」とすることにけむしは反対しており、表明の状況や仕方について、問題性の強弱に幅があることはけむしも否定していない。こういう例示は、最も望ましくないと感じる例をわざと選んで取り上げることで、自身の主張を正しく見せる、というやり方でしかなく、議論方法として不当だと思う。
ーーー
元投稿で畑さんは、『("「めんどくさい」と言語化すること"、つまり「めんどくさい」という言葉を用いること)を問題視している』のであって、③そのものを否定しているわけではないのではないか(問題視しているのは③-1だけではないか)、という指摘を受けた。
畑さんの元投稿へのけむしの批判は、大きく分けて2点。
1,
そもそも②(「めんどくさい」という感覚の内実)は、実態として、「②-1」「②-2」のように、切り分けることはできないだろうと思う。(少なくとも、miuraさんが示したようには、切り分けられないと思う。)
あるいは、切り分けられるとしても、切り分ける前に(前の)、「面倒に感じる」という認識表明を、「当事者にとって加害だ」と抑圧してしまうことは、問題だと思う。
その理由は、批判根拠が不足している、(「表明の仕方に関係なく、常に当事者の心情を損なう」という考えならば、それは妥当でないと思う、)という点と、表明を制限・禁止する不利益(悪影響)のほうが大きいだろう、という点。
2,
「③-1」の要素が強い場合でも、その表明をすべきでないのか、という論点は、きちんと検討されるべき。(自身の差別的感覚の表明について、状況や表明の仕方によっては、問題がない場合もあると思う。当事者がその場にいる場合でも。)
むしろ、表明を抑圧して解決、という方針にはかえって問題がある、というのがけむしの立場。
ーーー
『元ポストは③-1のさらに『めんどくさい』という表現に対する加害性の指摘であり、「一律に」とも「すべきでない」とも主張はされていないように見えます。』
元投稿に対するmiuraさんの解釈は(前のリプライで)理解しましたが、同意しません(誤った解釈だと思います)。
手間を大きく感じる・面倒さを感じる、という認識について、「②-1」「②-2」のような切り分けがそもそもできないだろう、ということは既に指摘していますし、
手間を感じる・面倒を感じるという認識表明それ自体を問題視せずにおいて、表明のなかで「めんどくさい」という表現のみを問題視するという立場は妥当性・説得性に欠けると思います。(なので、そうした変な立場は採っていないだろう、という。)
また、加害性のある表現を「すべきでない」のは前提的にそう見なせるでしょう。加害性を指摘しておきながら、「すべきでない」とは主張していない、というのは、理解できない解釈です(妥当でないと思います)。
『この前も話してて思ったんですが、表現方法など小さなレベルの話をしているのに「批判をすべきでない」や「その表現を一律にすべきでない」などと主張を大きく捉えて反対意見を展開しがち』
けむしの解釈が誤解だ、誤っている、というなら、自身の解釈論も示した上で、解釈論を戦わせれば良いだけです。本当に『小さなレベルの話をしている』かどうかは、そのmiuraさんの解釈の正しさにかかっている(miuraさんの解釈が誤っている可能性もある)わけで、そうした解釈議論を回避して、「本当はこうなのに、~」といった主張をすることはできません(論立てとして不当です)。
『引用して意見を述べるのであれば、発言者の意図や背景情報を確認するか『詳細が不明であること』を前提とした言及をすべきではないでしょうか。』
けむしも、不明点は不明点のまま、そのなかで妥当な解釈をしているつもりです。
ただ、基本的に、意図や背景がどうであれ、主張する側が言葉を正しく正確に使うべきであり、主張者が曖昧な表現をしたり、誤って意図よりも広い対象を言及してしまったとき、その責任は主張者側にあると思います。表現責任を過度に読み手側に譲るような考え方(つまり、表現としてはこう書いてあるけど、それは無視して、当人に色々訊いてみてから理解しようよ、という考え方)は、むしろ主張者への侮辱(人間が表現するという力・営みへの軽視)になると思います。
ーーー
『自分は「元々の議論の前提について(本人に聞けるようなことなのに)わざわざ解釈論を戦わせる」ようなレクリエーションがしたいわけではないので、じゃあここでお終いで結構ですとなりますね。』
上記で既に述べている通り、けむしは、miuraさんの論立てとしての不当性を指摘しています。けむしの解釈が誤っているとするmiuraさんも、自身で解釈をしているだけだ、ということを指摘し、その状態で(つまり「本当」を本人に訊いて知っているわけでない状態で)けむしの解釈を誤りと主張したいなら、解釈論を闘わせれば良い(そうするしかない)、とけむしは言っているわけです。繰り返しになりますが、『そうした解釈議論を回避して、「本当はこうなのに、~」といった主張をすることはできません』。解釈論を闘わせたくない(『ここでお終いで結構』)というならば、論立ての不当性がそのままになるだけです。
また、本人に訊けるというのは、どういうつもりでそう言っているのでしょうか。自分の質問には相手は絶対応えてくれるはずだ、あるいはその義務があるのだ、といった前提がmiuraさんの中にあるのでしょうか。けむしは、そこで一つ留保を置いており、(本人に問いを投げかけることだけなら確かにできるだろうが、)本人がいる脇で解釈議論をすることを一律に無意味だとは見なしません。そして、そうした立場の相違を、「(自分が無意味だと感じる)解釈議論を相手がするのは、それを娯楽だと思っているからに違いない!」と決めつけ、相手は真摯に考えているのではなく「遊んでいる・遊びたいだけ」なのだ、という「レクリエーション」レッテルを貼ることは、不当です。
『応答する前に相手の発言の意図や背景を確認して認識を一致させるのってコミュニケーションとして珍しくもないことだと思うんですが、』
いえ、むしろ逆です。もちろん、そうしたコミュニケーションも「珍しい」というほどでもない、あり得るものだとは思いますが、
「(もし意図や背景が必要だと主張者が思ったなら、)主張表現の中に意図や背景が織り込んである(=解釈・理解できるようにしておく)はずである、そうでなければ、意図や背景は関係なく、この表現のみから理解してほしい、ということだろう」、という認識は、一般的によくあることで、
反対に、既にそこにある主張表現の解釈・理解(の仕方を考えること)を軽視して、「訊けば早い!意図は?背景は?」とまず訊き始めるというやり方は、多数派ではないと思います。
また、「主張者への侮辱になる」という主張が誤っているとは述べず、かつ、『極端……』『拡大解釈』となぜ言えるのか、どこがどうそうなのか、を指摘しないまま、『あまりコミュニケーションしたくないな……と思いました』とだけ放言するのは、意図がよく分かりませんでした。それをすればけむしが傷ついたりして翻意すると思ってらっしゃるのか、あるいは、けむし向けでなく、会話を見ている人への印象操作なのか。
意見や価値観が異なる相手すべてに『あまりコミュニケーションしたくないな……と思』うんでしょうか。多分そうではなく、けむしの主張のどこかしらに誤りを認識しているからですよね。まず正面からその指摘をしたほうが、否定的感想を放つだけより、建設的かと思います。いや、もちろん自由ですが。
ーーー
『(仕事上など特に)"コミュニケーション"で「発言者への侮辱になる」のような理由で発言者の意図を確認せず進めたら問題が起きそうですね。』
これも、「意図が分からず、確認の必要性が強い事例」のみを取り上げて、反論する、という不当な議論方法をまたおこなっていると思います。
『コミュニケーションを取りたくないというのは言葉通り「今後交流は望まない」という意味でけむしさんに向けたものなのですが、意図を確認せず邪推するほうが侮辱なのでは』
コミュニケーションを取りたくない相手と、会話を継続し、「~な人とはあまりコミュニケーションしたくないな……と思いました。」と話しかけるというのは、素朴に(ストレートに)考えれば、起こりにくい行為です。つまり、コミュニケーションを絶つとか、「もう話さない」と直接的に述べる(今回のように)とかいうことをせずに、そういう(矛盾的)行為をあえて取る意味が何かある、と考えるのが妥当な解釈です。それを『邪推』とは私は思いません。
何にせよ、ブロックして済まされるということで、お疲れ様でした。
自身が受けた反論や不当な点の指摘を、再反論も訂正もせずどんどんスルーして、論点をそぎ落としていって、議論を続けられそうな論点だけ継続する、という手法が複数回、目に付きました。自己を省みる、ということをお勧めします。