表現の自由と差別について
『憲法が表現の自由を人権として保障したのは、それが単に「自由」だからではなく、人権として憲法で保障する価値があるからです。…… これら二つの大切な価値を守ることが究極的には個人の尊厳の確保に資することから、憲法は表現の自由を人権として保障したのです』
『個人の尊厳を傷つけるヘイトスピーチは、究極的には個人の尊厳を確保するという憲法が表現の自由を保障した趣旨に悖るものであって、それが表現の自由に含まれないことは明らかです。』
誤り。
自由が保障されるべき理由は、「個人の尊厳」という概念のため(だけ)ではない。表現の自由における「自己実現の価値と自己統治の価値」とを「個人の尊厳」という曖昧な概念に接続させておいて、差別がその「個人の尊厳」を損なうから、と議論を運んでいるのは、単なるテクニカルな概念操作による詭弁レトリックに過ぎない。結論誘導のための「ためにする」論理だ。
また、憲法が保障する表現の自由は、(憲法が表現の自由とは別の箇所で述べている、個人の尊厳を守るべきという)憲法自らの趣旨に悖る表現でさえも保証している、と理解すべき。
『「ヘイトスピーチが傷つけるのは、集団であって個人ではない」という人は、ヘイトスピーチによって傷つけられる人間を「記号的存在」として捉えています。しかし、ヘイトスピーチが傷つけるのは、「記号的存在」としての人間ではなく、一人ひとり顔も性格も異なる生身の人間なのです。』
藁人形論法。ゆえに反論も的外れ。
集団への表現が個人の権利を侵害する、と言う側がきちんと論理を示すべき。現在はそれが未達成である。
『「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はあるのか」という問いに対する答えは、「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はある」「ヘイトスピーチまで憲法が保障する表現の自由として保護する価値はない」のいずれかです。』
ある。ヘイトスピーチそれ自体のみにというよりも、ヘイトスピーチをめぐる言論総体に。(ヘイトスピーチかどうかや、なぜそのようなヘイトが出てくるのかや、ヘイトスピーチを記述・反復し分析し否定するといった言論も含め。)そうした言論にも、「自己実現の価値」と「自己統治の価値」とを有する。
そうして、表現内に価値の差異を付けること、つまり、このような表現では人間は自己実現・自己統治しないだろうとかいう勝手で傲慢な序列付けを、表現の自由主義は拒否する。
『本当に問うべきは、権力の乱用を防ぎつつ、いかにヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護していくか、ということです。』
この問いを考えるために、『ヘイトスピーチは表現の自由に含まれない』とする必要がない。『ヘイトスピーチも表現の自由に含まれるが、「公共の福祉」によって制約される、と解する』アプローチからでも、それは可能。