ひびうた
まず、「おうばいとうり」の社名いいやん。
「わかち合う時を求めて、わたしたちの共有地をつくる
三重県津市久居で、文化を通じて違いのある人たちが共に過ごすことができるための『共有地』づくりに取り組んでいます。」
「共有地」
その土地の権利を持つ者と持たない者とがいるのに、「共有地」だの言えないと思う。
使わせるのを許すだけでは、
共有地とは、(一人の)私有地でも公共空間publicでもない。
単に何かを共有する場所のことを「共有地」と呼ぶのは、妥当か疑問。共有(交流)だけなら、別に私有地(に集う)でも公共でもできるからなあ。
共同体主義者やアナーキストの言葉を簒奪しているような。
ひょっとしてミシマ社のこれを参照しているのかな。
「文化でわかち合う」とあるが、文化・人文が追いやられている社会・時代で、ひびうたはどういうスタンス?「文化より生のほうが大事だ」という声に対して? cf.「詩を食べて生きる」
けむしはスポーツ資本主義とか結構批判的だが(個人的にもスポーツは興味ないから)、「麻雀やgameの何が意味あるの?」
居場所を作る(居場所事業)、というとき、たいていはhomeでない(home以外にも)居場所、ということ。「homeのないあなたにも(いっときでも)居場所を」「homeをつくることまではできないよ」
しかし、ひびうたやサンカクシャなどはhouse事業もやっているので、けむしにとっては、理念をつかみかねる。
「目の前の人の居場所を作る」、と言うとき、
どうして目の前の人なのか、あなたは移動できるのに、優先順位を考慮せず、(たまたまそこに居合わせたという)「運」に乗っかるのか、という批判。
目の前の人のhomeをつくる、ということまで宣言しているのか?(そんなことできるのか?つくってあげたものは果たしてhomeなのか?)
居心地の良いサードプレイスと、homeとは異なると思う。
本を読まない・読めない人にとっての本屋、
「読むだけじゃない、本」 企画本屋honten
人(子ども)への褒め
児童発達のセンター(病院のリハビリ科)のスタッフが、子どもを大声でほめる声が部屋から聞こえてくるのだが、
自分が簡単にできること(だが、その人にとっては課題なこと)を、達成した人(子)に対して、どういう褒めが可能なのか、けむしは戸惑う。あの「すごーい!」という声から、白々しさ、薄っぺらさ、お世辞さ、をどうしても感じてしまうし、自分ではああいう風に褒められそうにないと思う。これはおそらく、私が「その人にとっての大変さ」をきちんと感得していない(腑に落としていない)からだろうと思う。
なかおあずま(チャイカとの会話にて)
「でも(働いている保育園の5歳とかの子も)積み木でいろいろ作れるからすごいもんね。」(うろ覚え)
この感覚(の持てなさ)。
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『場所を営む』感想メモ
『私たちがこのユートピア――誰もが理想とする場所、誰もが安心していられる場所――をつくりたいのはおなじ。…(中略)…で、そのあらわしかたがそれぞれ』13-14頁
「ユートピア」を作る、への違和感。ユートピアは実際に作れないからユートピアなのでは。万人にとっての理想状態のユートピアは存在しない(一つに定まらない)と思う。本当に公正なsaferな空間は、誰かにとっては理想ではないだろう。例えば、外国人が危険だと思っている人にとっては、そこは「安心できないけど安全である」、とか。
しかし実際には作れないけども、その上で、空想上にユートピアがある(構想する)ことによって、思想や現実世界を改善するのに機能する。
「場所を営む」話は出ていたが、「社会を変える」話はあんまり割かれなかったという印象。と思ったら、58頁アフタートーク冒頭で言っていた。
『自分たちの実存の支えになるような場所』58頁
「実存」とは?こういう話でしばしば「実存」(という用語)が持ち出されるのだが、ピンと来ていない(というか話者による何らかの誤魔化しがあると思う)。
『言葉で伝えるっていうのも、もちろんひとつの行動の様式なんですけど、なにかするっていうのは、その場に居合わせたときに、出会ったひとの感動がより大きくなっていくことだと思うんで。そういう意味で、場で一人のひとがはじめたことによる行動は、その行動をそこですることを支持する場があることで、広まりやすくはなりますよね。』62頁
自家ZINEという「場」。「練習場」、「発表会」場、
初めて参入してもらうこと。本(zine)を読む、行動する、執筆する、といったことを初めてやってもらうことで、社会を変える。
『本そのものを共有地にしたい』66頁
就労支援、働く練習
『チェーン店だとどうしても物量がおおきくなっちゃうぶん、本そのものの持つ力が見えにくくなっちゃいますよね。それを補うためにPOPを置く必要がある。でも、こういう小さいお店はわざわざおかなくてもしっかり見てもらえるので。』105頁
本そのもの(マテリアル)が持つ力。
『場所を営む』も『本読むふたり』も、表紙のデザインにおいて、本が物理的に場所を作っている、という点は重要。巨大な本が地面、階段、部屋の壁になっている。
『HIBIUTA AND COMPANY のコンセプトである、「わかち合うときを求めて、わたしたちの共有地をつくる」ためにできることとは何か。HIBIUTA AND COMPANY の目指す共有地とは、違いのある人同士が、食事や読書、創作活動という文化を通じて、同じ時間と場所をわかち合うことのできる場だ。』117頁
単に同じことをして時間や空間・場を共有するいうことを「共有地」とは呼ばないと思う(「交流」?)。満員電車が共有地ではなく、読書会が共有地だとするとき、何が違うのか?そこでは何を共有できていて、何を共有できていないのか。
自分が作ってないもんを売る人、とは?
レストランが、有害なまずいものを提供してたら当然批判されるが、
商店が商品すべてを味見・利用しなければならないか、と言うと、微妙。しかし、品質も分からないのに仕入れてるのか、という批判も分かる。最低限の品質安全は法律で担保しているということなのだろうか。
お前の道路を通ってきた殺人者のせいで被害が!という批判は、妥当ではないように思えるが、商店の例との違いは?我々は、道路をもっと厳しく管理すべきだろうか?(関所など。)少なくとも交通事故は減るだろうが。
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『本読むふたり』感想メモ
『……ことで、個人的な感想や感情と、社会的なレビューや批判とが、ごちゃ混ぜになってしまった。』7頁
筆者の加藤さんがどういう区別をしているのか、疑問。区別はできないのでは。
『こうしたことは突き詰めていけば、人がただそこに存在していることすらも蔑ろにされかねない、非常に危うい兆候だとも思う。』7頁
認識が誤りで、「人がただそこに存在していることすらも蔑ろにする」ような精神性を持っている人々が既におり、そうしたものに基づいて、「こうしたこと」(手段の目的化や誹謗中傷)が起きている(起こしている)のだと思う。
『だが昨今の、いわゆる「ネット上の言論空間」におけるドミナントな態度は、最初から責任を放棄していたり、他者へ責任を転嫁していたりする。それは論理と合理性に基づいて成り立ってきた現代社会にとって、本来まったく相容れないもののはずなのだ。』8頁
まず、自身で責任を負わないような態度が、最近のネットだけかというのは疑問。社会に生きている人々の多くは、ずっとそうだった=「人文知」やクリティークなどとは無縁に生きてきたのでは。そして、現在の社会が「論理と合理性に基づいて成り立ってきた」、というのは「近代modern」の前提論理だが、これも神話でしかない。「近代の論理」は、大小さまざまな社会制度を通して論理と合理性を社会の前提として、ないし社会に徹底させようとしてきたが、実際の人々が生きる現実世界は、論理と合理性(だけ)に基づいているわけではない。以前からいた「アホ」たちの声が可視化されただけであろうに、最近のネット空間を参照して、『この十数年で』人々の「知」が劣化してきたみたいな認識を持つのは、インテリの嵌まりやすい誤りだと思う。
『社会的な情報は家庭や学校で人づてに教わり、新しい情報は新聞やテレビを見て知って、体系的な情報は書店や図書館に行くことで獲得されていく、といった経験が普通だったのはおそらくぼくの世代が最後なのだと思う。』11頁
そうした経験が「普通」だったのは、世代ではなく、筆者の「階層」によるもの(一部の階層・階級だけ)だろう。筆者はあまり下層の生活世界を知らないと見た。知やクリティークへの信念はけむしも持っている(共感する)ところだが、こういう認識に基づいたインテリたちの言論には警戒せざるを得ない。
編集の井上さんも書肆部の村田さんも、海外文学も抵抗なくたくさん読んでたり、同人で作家やってたり、という、一定の知的階層・能力を持っており、その産出物(『まちうた』以外の)も、一般商業出版物と同様、洗練されている「上手い」文章である。この「偏り」には留意すべき。ひびうた(編集室)が、社会で「普通に」働けないが、別の分野の能力は高い、という発達障碍・精神障碍者の(就労)ミスマッチを改善する、ということだけを目指し、知的能力・経験が高い一部の障碍者だけを筆者(・読者)とし、あるいは「上級者」によって校正・編集された本だけを扱おうとしているのか、あるいは、そうではない人々の、「拙い、読みにくい、ときに理解不能な、」言葉たちをどう届ける、ということまで視野に入れているのか、という点は重要な差異である。現時点では『まちうた』未読なのでこの点はまだコメント保留しておく。
一方で、90-91頁の視点も要注目。「『本を読むしか能がない』」人間が社会で生きていくには。「これしかできない」の先に見える景色。
25頁、「ディスレクシア」に註付けてないのはちょっと不親切では。「マイクロアグレッション」も。対談記録に註を付けない主義と言うならまあ分からなくはないが(現場では解説はないのだから)、しかし不親切なのは変わらないと思う。どういう読者を想定している(/していない)のかが分かる。
67頁、脱字?「そこを見ても、論理はすごく狂っているんだけど、これって今の私たちが生きる現実の世の中に実現してることの裏の論理でもあるが見えてきて、怖くなったりもするんですよね。」
76頁、誤字?「逆に言うと、差別感情や階層化にいかに支配に都合の良いものかということでもありますね。」
やはり、『ユートピアとしての本屋』を読んで批判をせねばな。(オバケヘッドzineへの批判と一緒に、ひびうたも批判することになるだろう。)
100頁、収容所での歌やユーモア。「歌や笑いというのは苦しい現実やどうしようもない状況を誤魔化すようなものなんだけど、」「魂が死んじゃう。それをギリギリで避けるためのユーモアであり、歌でありっていう。」というのは、ちょっと限定的に捉えすぎているというか、歌やユーモアの力を過小評価していると思う。単なる生き延びるための「誤魔化し・逃避」以上に、「ずらし、開拓性」みたいな意義・力。
103頁、「期待する結果が得られることがない」収容所のような環境で、「この苦労を引き受けることを決断しないといけない」
104頁、「おおきな」表記ゆれ?
104頁、「逆に『生きることが私たちになにを期待しているのか』」、「生きることの意味を探すんじゃなくて、私たち自身の生命が問いかけてくることの前に立つんだということが書かれている。」
難解だが重要(問い立て屋として)。けむしは(けむしも)強度とかまなざしとか、世界や他者から問われる、ということを重視しているが、。例えば酷い経験をしてきた「私」個人が生きることに何の期待もできなくても、「私が生にどういう期待をできるのか」ではなく、「生からどういう期待をされているか」。周囲に自死(志望)者が多い時代・社会において、参照点。
105頁、「苦しむことは人生によって与えられた義務なんだという言葉は、わかるよとは言えないんですよね。……嫌ですもん。そんな義務は。」課題本には、苦しむことが人生の義務だとは書いていないのでは。(未読だから知らんけど。)厳密には「生きることが各人に課す課題を果たす義務」を引き受けること、「苦しむことですら課題だった」とある。苦しむこと自体が義務なのではなく、苦しみという「課題」をどう「果たす」か(果たすとは何か)、という。この細かい差異は重要。(もちろん、苦しみから逃げない、苦しむことが果たすことだ、というのも回答の一つではある。)
「精神の自由」「『あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない』」「運命―賜物」
108-109頁、木と話す女性、『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの』『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした』
132頁、「HIBIUTA AND COMPANY の理念の中に『わかち合い』って言葉があるんですけど、本という媒体を通じて痛みの経験をわかち合うこともできると思います。」
うーん、あり得ないとは思わないが、けむしはかなり懐疑的な立場。(本を通じて)経験を分かち合うとは、どういうことなのか。苦しい経験を読んで「こっちも痛く」なったらそれは「分かち合った」のだ、とは私は思わない。むしろ、分かち合って・共有していないのに、「こっちも痛くなる」ということの意義。
133頁上段、誤字。「こういう本に出会える確立を増やしていけたら」
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『だれかといない場所』感想メモ
5-6頁。やはり共有地概念への違和感。
「『本』そのものも、わたしにとっては共有地だ」
仮に「私の居場所がある」と感じさせるような内容の本が置いてあったところで、しかしこの場所(書店・カフェ・図書館)はそれを「体現・実現」していないのだ、というズレのほうがむしろ目立ってしまうだろう。
7頁、「共有地にはかならず他者がいる。」
「わたしが圧倒的に知らない存在たちがいて、調整され、維持され、はぐくまれてきた場所である。」「その場とともに歩む存在のすべてを知ることなく、そして、おなじ場を『あなた-わたし』の共有をせず、『だれか』同士のまま、ひとりでたたずみ、見まわす、――やすらぎ、くつろいだとき、軌跡と、場、そのものが、『わたしたち』である場所を、共有地と、わたしは呼ぶのかもしれない。」
「誰かといない場所」という表現、不在人みがある。
「~ことのほかにはすることがないような空間」(11頁)、「~といった行為が要請されること」(14頁)、
空間が目的化されている、というのは、それ自体は、良いも悪い面もあると思うが、資本主義社会では、森や川など自然でさえ(お金を落として)消費することが要請され、「遊び・踊り・ジャグリング的」な使い方がしづらくなっているというのはあるだろう(問題だろう)。
「入っても怒られない場所」(13頁)、
失敗してもいい「練習の場」(17頁)
身近すぎる他者がいないから、自己評価に影響せず、練習場たり得るのだ、という理路はそのまま肯定してよいのだろうか。実際の「良い練習場・練習相手」がどうなっているかを見ていく必要があると思う。
20-21頁、「子ども扱いしない、というのは案外難しい。そこにはある種の無責任さが含まれることにもなり、善き大人(であろうとしている者)ほど、その状況に良心の呵責を覚えてしまうからだ。」
けむしは「子ども」カテゴリを特別視する立場を取らないため、ここの理路はもう少し丁寧に見ていきたい。ここでは、なぜ子ども扱いすることが良いこと(しないことが悪いこと)とされているのか、なぜ子ども扱いが「(大人の)責任」と関連付けられているのか。そもそも子どもを「子ども扱い」するとは、よく分からない言葉である。「子ども扱い」という言葉には、一定の(大人へのとは異なる)保護、介入(ときに支配)、義務や罪・責任の免除、それと引き換えの「市民メンバーシップの剥奪」(お前は一人前の主体的な人間存在ではない)、甘やかし(評価の下駄履き/差し引き)、といった意味が付与されている。けむしはパターナリズム批判の視点から、こうしたものの一部は不当な「子ども差別」であると思うが、一旦置いておく。とにかく、「子ども」カテゴリを特別視する人々にとっては、こうした「子ども扱い」は、当人たちの無能力(など)によって倫理的に要請されるものであり、されてしかるべきこと(善いこと)とされている。ゆえに、それをしないことは「ある種の無責任さ」と見なされる。
けむしは、子どもに対して大人と同等の放任さで良い、とまでは思わないが、当人の自由を重んじる立場から、「サービス」や「要らぬおせっかい」は、子どもの自由を阻害する有害さ・悪さを持ち、むしろ非「道徳的な振る舞い」(22頁)であると考える。
「必要なのは調節なのだ」(22頁)というのも、けむしは注意書きを付したい。手助けと呼ぼうが「調節」と呼ぼうが、その「調節」が必要なのは、本棚の高さ(あるいは本棚というもの)が一定の人々の集団を排除している(想定していない)からである。平等な本棚の配置を考案・実践しないまま、一部の人は自分の意のままに自由に取り出せて、一部の人に対してだけ都度の「調節」で済ませること自体が、差別(への加担)である。(もちろん、本棚の高さとは一つの例である。)我々は「合理的配慮」をもちろん検討・実行すべきだが、それと同時に、既存のシステムを(調節さえ要らないほど)平等化するよう努力すべきである。
そうして、平等な基盤が整えば、あとは個々人への(文字通りの)「調節」だけになり、介入は(ときには見守りという名のまなざしさえも)、要求してきたら、でよい(22-23頁)。子どもは大人と異なりnegotiationできないだろう、という認識は誤りである。もし子どもが意思があるのに十分に(「上手に」ではない)ネゴシエーションできていないとしたら、それはそうさせない何らかの制度的・状況的要因が働いていると私は考える。例えば、子どもの主体的な声を聴かない状況、過保護、過介入、先んじて大人が用意してしまう・(やり方を)決めてしまうこと、。あるいはより正確に言えば、そうした要因によって、大人でさえネゴシエーションできない人もいる。
32頁、『SFというジャンルを……守り、育ててい』くとは?単に作家・読者を作り続ける(維持・再生産する)ということなのか?
32頁、『……ではその場をどのように作るか(どのような経済的基盤の上に、どのような意思決定によって、どんなふうに安全・安心面に配慮し、誰に向かって開かれた場なのか)を検討することができるようになるのではないかと思います。それは同時に、その場に対して、自分自身はどのように責任を負うのかということでもあります。』
「どのような経済的基盤」とあるのは重要。これは安定した場の基盤、ということに限らず、例えば倫理的に悪い(ことで稼いでいる)団体から資金提供を受けていないか、とか、政治的に偏った団体を経済基盤にすると意見も偏って介入されないか、とか。
33頁、『もちろんこれは、SFファンであれば皆、SFという”場”に対して責任を負うべきだ、というような話ではありません定義も構成員も曖昧な場に対して責任を負うなんて誰にもできません。』
どうだろう。場に対してはそうかもしれないが、例えば「公共」とか「自由」とかいう概念(信念)に対して責任を負うことはできる(すべき)ような気がする。「反差別活動」という場に対して責任を負う、ということも想定できるような気がする。それは、その場で別の誰かがしでかしたことの責任を自分が負う、ということではなく。
33頁、『つまり、場として意識することで、その場を変革しうる存在として、自分の果たしうる役割について考えることができるのです。』
けむしは、「世界」や「世の中」、「社会」、というものを変革可能なものとして常に捉えているので、「場として意識することで、」というのはあんまり共感しない。でも、自分の周囲の既に出来上がっている環境・コミュニティを硬直的に捉える人も確かにいるだろう、とは思う。
36-38頁、猫との公正な関係性(共同生活)。
猫を飼う、ということについて、アナキストたちでさえ擁護的に語ることがあるが、あんまり納得のいくモデルにけむしは遭遇してこなかった。このあたりのテーマはもうちょっと蓄積が欲しいところ。
38-39頁。言語化には限界・暴力的な面(「恐ろしくて窮屈な側面」38頁)もある、振る舞いの射程は言語にできないこと・外側にも及ぶ、という点には同意するが、言語による誤魔化しは言語により喝破できる・乗り越えられる、とけむしは考える。したがって、悪を誤魔化し自己正当化する言語巧者たちという問題に対して、振る舞いの領域はあくまで回避・「救い」でしかなく、「言語は誤魔化しがきくが、振る舞いは誤魔化せない」というような二元論に嵌まるなら誤りだと思う。
また、『新自由主義の蔓延した社会で、”言語化”なるものが”言葉によってそれっぽい絵を描いたものが勝ち”という勝負の世界の道具へと変質させられてしまう』という危惧の感覚は共感する部分もある(博報堂的な悪さはけむしも思うところがある)が、言葉と正しさ(言葉による正しさ)を追究する立場からすれば、いかに言葉で人々に描き、説き、説得するか、という営みは、血や信念や美学にあふれているものであり、「それっぽい」「勝負の世界」と表現されることはけむしにはどうも侮辱的に感じるし、誤り(実態からの切り詰め)を含むと思う。もちろん、ことばの世界は、正しさや対人だけではないが、けむしは、直接的な説得から孤独な言葉遊びまで、人々に影響を与えようとするその豊かな営みにおいて、やはり言語の悪に対しては言語で以て「克つ」べき、「よりほんとうの言葉」を求めていくべきだし、それができると思う。もし将来「言語の世界で新自由主義に完全に趨勢を取られたから、もう振る舞いの世界しかない」みたいな発想をするとしたら、世界の多くを損失するだろうとけむしは思う。
・「HIBIUTA AND COMPANY」という屋号、どうなの?
元ネタ、パリ「シェイクスピア&カンパニー」
まちうた募集要項、「掲載できないこと」が変更されている。
「成人向け」