けむしの自己紹介、への懐疑 (なぜscrap boxで書くのか)
以下は、サン=テグジュペリ『あのときの王子くん』(訳:大久保ゆう)より引用。
こうやって、しょうわくせいB612のことをいちいちいったり、ばんごうのはなしをしたりするのは、おとなのためなんだ。おとなのひとは、すうじが大すきだ。このひとたちに、あたらしい友だちができたよといっても、なかみのあることはなにひとつきいてこないだろう。つまり、「その子のこえってどんなこえ? すきなあそびはなんなの? チョウチョはあつめてる?」とはいわずに、「その子いくつ? なんにんきょうだい? たいじゅうは? お父さんはどれだけかせぐの?」とかきいてくる。
それでわかったつもりなんだ。おとなのひとに、「すっごいいえ見たよ、ばら色のレンガでね、まどのそばにゼラニウムがあってね、やねの上にもハトがたくさん……」といったところで、そのひとたちは、ちっともそのいえのことをおもいえがけない。こういわなくちゃ。「10まんフランのいえを見ました。」すると「おおすばらしい!」とかいうから。
だから、ぼくがそのひとたちに、「あのときの王子くんがいたっていいきれるのは、あの子にはみりょくがあって、わらって、ヒツジをおねだりしたからだ。ヒツジをねだったんだから、その子がいたっていいきれるじゃないか。」とかいっても、なにいってるの、と子どもあつかいされてしまう! でもこういったらどうだろう。「あの子のすむ星は、しょうわくせいB612だ。」そうしたらなっとくして、もんくのひとつもいわないだろう。おとなってこんなもんだ。うらんじゃいけない。おとなのひとに、子どもはひろい心をもたなくちゃ。
でももちろん、ぼくたちは生きることがなんなのかよくわかっているから、そう、ばんごうなんて気にしないよね! できるなら、このおはなしを、ぼくはおとぎばなしふうにはじめたかった。こういえたらよかったのに。
「むかし、気ままな王子くんが、じぶんよりちょっと大きめの星にすんでいました。その子は友だちがほしくて……」生きるってことをよくわかっているひとには、こっちのほうが、ずっともっともらしいとおもう。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001265/files/46817_24670.html
自己紹介への懐疑、という自己紹介。私の自己紹介嫌い・苦手について。
1、何で言わなきゃいけないの?
親密性のために共有される(べき)自身の情報?
属性(自身にまつわる情報)を(段階的に)開示することで仲良くなっていく、っていったい何?その人の性別、年齢、職業などが分かったから何だっていうの?
じゃあ属性でなく好みとか性格・「人となり」などなら良いのか、というとあまり腑に落ちない。(線引きできる?「役割―パースン複合体」by中河伸俊)
会話・対話の成立のために、前提条件として、相手の情報を知る(/自分の情報を知ってもらう)ことがほんとに必要なのか?それなしのコミュニケーションってほんとに不可能なのか?
その人の年齢・性別・出身・セクシュアリティ・職業・趣味(好み)によって振る話題を変える、ってどういうこと?
自分の好きなものを通して自分を語るって、みんなやってるけど、いったい何?(「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」に対しては全く共感も同意もしない。)
単に同じものが好きってだけで、同質性・仲間性・「話合うだろ」性を前提としていいの?あるいは前提としないの?前提としないときのコミュニケーション・モデルはどのようなもの?
「~~が同じなら話が合う」だろって前提は、仮に真だとしても微妙じゃね?むしろ「~~」が異なる人とのコミュニケーションを避ける傾向は何らかの損失では。そこ以外のコミュニケーション回路ないのかよ、みたいな。
価値観さえ異なる異者alien・他者との出会い、コミュニケーションの可能性を私は見たい(信じたい・つくりたい)のかもしれない。「他者」と出会うことを(意識的にというよりも仕組み的に)避ける現代社会、それでも不可避に出会ってしまう(「ウゼー」)職場、コンビニ、路上、街、どこ?
一つの物体・事象・テーマ(命題や問い)があって(共有し)、それについての各々の考えの語り、それから浮き出る「person人柄」……というコミュ・モデルがあり得るのでは。「話が合う」とはそのテーマ選定の傾向の一致のことか。相手と「話すことがない」というより、(相手が出してきた)それについて「話すことがない」。
誰もが話せる(あるいは話せないという状態について考えれる)話題(一つの物体・事象・テーマ)選定はどうやって?『世界に対して共にアプローチをかけている仲間として、』生活戦略や、(広義の)政治について。(e.g. 人体、健康について?自分の名前・名付け、家族の名前、家族構成。すべての人(子)は「家族」(ケア集団)の下に育つ。あと、誰しもが必要な「食」。)
2、何を言うべきなの?
別に私は秘密主義という訳でもないと思う。自分について話したくない訳でもない。自分を考える/深く知ることが無意味だとも思ってない。むしろ逆、奨励している。自分について考えることを重要視しているからこそ、「あなたについて教えてください」という要求の前で立ち尽くしてしまう。
『あのときの王子くん』から。「おいらのひみつだけど、すっごくかんたんなことなんだ。心でなくちゃ、よく見えない。もののなかみは、目では見えない、ってこと。」
「生きることがなんなのか」まだよくわかっていない私は、人間の(私の)本質・核・なかみとは?という問いをまだ必要としている。(私の本質が「すうじ」や「ばんごう」である可能性もまだ否定できない。)何を語ったら「私」を語ったことになるのか?それはまったく陳腐な(しかし多くの人にとって重要で、だからこそ陳腐な)自分の「アイデンティティ」(私は何者か)をめぐる問いなのだろう。
3、あなたと何を話そう
ピア・ミーティングで、自己紹介のときに、「自分について(相手に)知っておいてほしいことを話してください」というやり方は良いな(納得できる)。Q、私は相手に何を知っておいてほしいのか?A、特に何も。というか、会話を始める前に知っておいてほしいことは何もない。
じゃあ自己紹介抜きで早速何を話そうか、となったら、私の話したいことはもちろん優先順位がある。(私の関心事たちとそうでないものたち。)では、あなたと何を話すかを決めるための参考材料として、そうした私の関心事たち(私の好きな・嫌いなもの/こと、いま私が考えていること、あなたと考えたいこと、)についてなら、語ることができる(語る意味を自身で納得して語れる)。そのような、 私の関心事たち=脳内思考を提示することによって、自己紹介代わりにしてしまえという取り組みが、このscrap boxを使った「けむしの思考かけら箱」(仮)である。
(一方で、自身が関心のないことについて他者と会話することにも意義はあると私は思っている。また、私の関心事を変化させようという他者からの試みも歓迎している。ただ、私のリソースは限られているから、どちらかと言えば、私が対話したいことを対話することのほうが多いだろう。)
なぜscrap boxで?
ツイッター: (2023年7月、アカウント削除)
はてなブログ:
私の関心事たちを提示するのに最適な形は何だろうと考えたとき、scrap boxのような形式が最適に一番近いと思った。(似た形式でより使いやすいサービスがあったら教えてほしい。)私の関心事たちを複数の面で可視化でき、相互に関連する部分はリンクで繋げられるし、関連がない(orまだ見出せない)部分は切り離して表示できる。ブログ記事を複数書いていくという形式もできるが、時系列にそんなに重心を置かないというのもあって。時系列で「重ねていく」ブログ記事形式よりも、scrap boxのほうが「人間」をより表せれるのではないか、多元的・多面的である人間を。私のTwitterアカウントを見ることでも私の関心事の一部は分かるかもしれないが、(私は鍵アカは使わないので、)公に(誰かに向かって)「呟く」のとは異なるベクトルの思考もあるし、何よりシステム的に「流れていってしまう」ので適していない。(この記事をここまで読んだ人は、私がTwitterシステムの「共感」志向と距離を置いているだろうというのも感じるかもしれない。)
ここ、「けむしの思考かけら箱(仮)」は、私の関心事たち=脳内思考を可視化していくということなので、皆さんへの自己紹介代わりという機能だけでなく、自分用として、思考・思い付きのメモ帳にもするつもりだ。思いめぐらす脳内思考をそのまま書くこともあるので、主張の細かい点の正誤に慎重になったり、日本語をきちんと推敲したりというのをあえてしないときもある。ご容赦ください。「脳内思考」なので、気軽に適宜加筆・修正したり、ページも増やしていく。ページの削除は基本的にしない予定だが、ページの統合や、思考が(内容的・量的に)まとまったらはてなブログ記事のほうに移すということはあるかも。
はてなブログとの使い分けについては、1つのテーマにがっつり長文の論考を書くような記事や、ローカルな活動の記録は、はてなブログでやる予定。こちらのscrap boxでは、くだけた、より「パーソナルな」こと(個人的な趣味・好みとか)も書けるような場にしたい。