あさりさんブログ記事へのコメント
https://fedibird.com/web/statuses/113173194428599113
2024/9/25「世論世論というけれどー死刑廃止を考えるー」
https://athalisawali.hatenablog.com/entry/2024/09/25/205058
元ツイをきちんと引用すると、
「いくら袴田事件など死刑冤罪の事例があっても、センセーショナルな殺人事件のほうに人々の目が向いてしまうのも死刑を望んでしまうのも当然で、世論から死刑廃止に持っていくのはもう絶対無理。だからこそ、死刑廃止派はほかの意見にも寄り添って考える必要があるし、批判するなんてもってのほかです。」
まず、1,「世論から死刑廃止に持っていく」ことが無理かどうか、と、2,異なる意見に「寄り添う」必要があるかどうか、と、3,批判すべきでないか、ということは、すべて異なる論点である。
けむしの立場を先に言えば、1,無理ではなく可能、2,(1を実現するためには)意見の異なる他者への説得に際して、単なる否定や侮蔑ではダメだという意味なら、確かに「寄り添う」必要がある、3,寄り添いながら批判することは可能なので、批判すべき(どういう形の批判かはともかく、批判は避けられない)。
2や3も重要な論点だが(けむし独自の思想があり、scrapの別ページ参照※未完)、あさりさんが主に論点1に対して同意しないと反論しているので、けむしも以下では1に限定して論じる。
世論変革が可能だと考えるけむしの理由を述べる前に、まず、ブログ記事の記述から、筆者の不同意の理由を追っていこう。
理由の一つ目として、筆者は、調査手法(設問設定など)が不適当という問題点から、政府調査では世論の把握自体が適切になされていない、ということを指摘する。死刑制度賛成が8割という世論の状況から「賛成派が多数で変えられそうにない」と見なしている人に対して、そもそも前提自体が誤りで、反対派がもっといそうだ、だから「世論から死刑廃止に持っていく」ことはできるのだ、という反論になっている。
『“世論から変えようとしても無駄だ”という反論は、秘密主義にもとづいて情報管理をする政府によって、多くの問題が含まれたままに行われた“世論”を前提としているか、それを元にした“死刑賛成八割”という部分だけが強調されたイメージに基づいている。』
そして、筆者は二つ目に、人間の考え・価値観は、持っている情報によって影響され、変わり得る、ということも指摘している。『国のとる極端なまでの秘密主義による情報の非開示とアクセス阻害』が改善され、死刑制度の問題点が人々の目に留まれば、人々の意見は変わり得る、としている。
(※けむしには、この「政府の秘密主義」が具体的に何を指しているのか分からなかったが。)
けむしが批判的に指摘したいことが一つある。それは、筆者の理由の一つ目を反論の根拠に用いるのは、運動家にとって危うい、ということである。つまり、8割とか割合の多数さを根拠にして、「制度廃止に向かうために、世論を道具(味方)にするのは無理そうだ」と言う人に、「いや、実はそんなに多くなくて、反対派も結構いるんですよ。だから世論から廃止に持っていくこともできますよ。」という反論の建て付けでは、本当に8割・9割が現状維持賛成の事例については、世論を変えられないということになる。そうではないはずだ。
けむしなら、筆者の二つ目の理由のように反論する。まず、正面から、「世論が変えられるかどうかに、現状の割合は関係がない」と指摘する。差別反対の運動の歴史から見れば明らかなように、たとえ9割が自分と異なる意見でも、たとえこれが差別であり不正義であると気づいているのが自分しかいなくても、他者を説得し、考え方を変え、ひいては多数派を取り、制度を変えることは可能である(であった)。世論とは、ひとりひとりの人間の集合である。一人の人間の考え方を変えることができれば、現状の世論統計がどうであろうと、世論は変えられる。
「いくら袴田事件など死刑冤罪の事例があっても、センセーショナルな殺人事件のほうに人々の目が向いてしまうのも死刑を望んでしまうのも当然で、」
人間の変えがたい性質や身体的習慣、考え方の慣習などがあって、「~てしまう」こともあるだろう。しかし、それでもなお( #デンノッホ )、自分がより正しいと思うほうへ向かうことはできる。人間が何に目が向き、何を好み・望むかさえ、変わるものである。根源的には、人間のあり方それ自体を変えてしまうというような変革を、運動家は行わなければならない。
どうしてあなた自身は死刑反対と考えるようになったのか、を考えてみよ。それを他の人にも起こせないか?黒人も同じ人間なんだと、経験として気付いた小さなきっかけや、この扱いは何かがおかしいと、自分の感じた「正しさ」。
リアリズム気取りなのか、悲観主義なのか、世論を変えることはできないと主張する人々は、「彼らは自分のような経路をたどって意見を変えることはできないだろう」と、自分以外の人々を馬鹿にしているか、あるいは人間という存在自体を馬鹿にしている。
けむしは、人間は変わることができる生き物である、と信じている。それは歴史的に事実であるし、それだけでなく、けむしの信念として、信じている・〈賭けて〉いる。(参照:けむしの賭け論) (「かくしんの言葉」(確信・核心・革新)byじん)
人間は変わることができる生き物である、ということを信じられない活動者は、ダメ。事実として誤りだし、その人自身、運動をやっている意味がないとけむしは思う。本当にダメ。
そして、人間が変わり得る存在であるならば、行うべきは、彼らが変わるきっかけ・学ぶ機会を与えることである。筆者が『情報環境のあり方を修復する』と述べているように、情報格差や教育格差、メディアのあり方、など、課題はいくつもあるだろうが、ここではもはや論点は「世論は変えられるかどうか」ではなく、「世論はどうしたら変えられるか」に前進している。
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2024/10/3「自己責任じゃないー死刑廃止を考える2ー」
https://athalisawali.hatenablog.com/entry/2024/10/03/113624
1,
どうでもいいけど、サブタイトルの記号が長音になっていることに気づいた(前記事も)。
2,
被害者当人以外を含めて「被害者」と呼ぶのは、ちょっと私は抵抗ある。
被害者当人の家族や友人にも何かしら「損なわれる」ものがあるという感覚はまあ分かるし、血縁にとどまらない親密な関係者の二次被害を構想するアイデアもあり得るとは思うのだが、
一方で、上記のような感覚・アイデアには、家父長らが息子・娘の損害について口を出す(代弁する)というような問題要素も含まれており、広い「被害者」概念定義は、それを助長してしまうと思う。
私としては、「家族でも遺族でも、被害者当人ではない」、という、あくまで個人主義を徹底すべきと思う。(その上で、上記の構想は可能だろう。)
遺族は、故人当人の法的権利を引き継いだりできるかもしれないが(賠償請求など)、償「わせ」ることについて被害者当人を代弁できるわけではないと思う。
3,
「厳罰」「厳罰主義」という言葉が具体的に何を指しているのかが、よく分からない。
「罪には罰を」という概念自体を否定しているようにも読める。重い罪に対してそれ相当の(終身刑ではない)「厳しい罰」を与えるということも、「厳罰主義」として否定する立場なのだろうか?
懲罰には、『加害や被害をできるだけなくすことや、またそれが繰り返されることを防ぐという目的』と、「罪には報いを」という目的と、二つの別の目的がある。(そして、「報い」と「償い」とは、別のものだと思う。)
防止目的については、事実に基づいた議論(予防効果が本当にあるのかとか)がされればよいと思うが、「報い」論者に対してどういう反論があり得るのか、けむしは不知なのでちょっと気になるところ。
そして、償いとは何か?という問いに対して、「死が償いになる」派と「いや、ならない。死よりも」派がいる、と。
4,
事実関係には註を付けてほしい。
『スケアード・ストレートと呼ばれるプログラム』について、おそらく実験の研究か何かがあるんだろうが、出典を記してほしい。(末尾に参考書籍だけ書かれても、記事のどこが参考箇所なのか分からない。)
『被害者の多くは厳罰によってまたは死刑によって癒されることはない。』とかも、調査結果があるなら、註で示してほしい。