「嫌い」の批評
偏食について、
「何でも(美味しく)食べられたほうが良い」というのが仮に正しいとしても、実際の人間は何でも(平等に美味しく)食べられるわけではない。
自身の好み・美学、を考えるとき、醜・嫌い、不快さuncomfortable、の面も考える必要があるが、
今のファン界隈にある、批評自体への忌避もそうだが、ネガティヴな感想は記述するべきでない、という風潮。(正しい批評は「推し」の利益になるのに、という視点が抜け。)
自身の嫌い、不快さ、醜、uncomfortableを大切にする(尊重)こと。
個の多様さ、
マンスプレイニングはまあ注意すべきだが、人に何かを教えたがる、というその人の性格・特性が、役に立つ場面もあるかもしれない。例えば、何度も説明されたい(されないと分からない)という人と、何度も同じことを繰り返し教えるのがどうしても不快、という人は、噛み合わせが悪い。音楽のテーマフレイズの繰り返しを嫌う(すぐ飽きる)人もいれば、サンプリングが好きで、単調なフレイズを何百回でも繰り返して(その繰り返し自体を)楽しめるような人もいる(ジャンルもある)。
そうした噛み合わせの相性の保証は、多様性が基盤になっている。
首元のネクタイの素材の感触が嫌、この食材がどうしても食べられない、この音の不快さには堪えられない、といった「嫌いの側面」の批評をきちんと(奨励)すること。
自身のミソジニー・ミサンドリー、嫌悪、ルサンチマン、をきちんと見つめること。(最初から「向き合う」のではなく、見つめてからどうするか考える。)