単語は文の中で初めて意味を成す
例:「猫」とは何か? 「富士山」とは何か?
ある単語を別の言葉で説明できても、本質的にそれが何であるかの説明にはならない
指示対象説
固有名であれば個体を識別できるので実際に行って指し示せばその単語の意味を示したことになる
その名が指す対象を指示対象と呼ぶ
一般名の場合の指示対象とは?
「猫」は不特定多数を指すものであるからして「これが猫だ」という説明は不可能
「とある猫」は世界に存在するが「猫一般」はどこにも存在しない
しかし「猫」という語の意味は明らかに一般性がある(=特定の個体を指し示すものではない)
個別の集合からそのどれでもありかつどれでもな一般観念が心の中に生まれる
それが一般名の指示対象である
一般観念説への批判
仮に一般観念があるとする
ある単語の一般観念が同じ単語を使う別の人のそれと同じだという保証がない
確認するには言語を用いるか、具体的な指示対象を探してくる必要がある
仮に同じであることが確認できるとする
時間が経ち新たな経験を積むごとに心の中にある一般観念は変化しているはずである
昨日と今日の一般観念の同一性はどのように確認できるのか
多少の変化を許容した「一般観念の一般観念」を定義しても、やはりそれ自体が変化し得る
∴一般観念なるものは単語の指示対象として不適切である
単語は文の中で初めて意味を成す
「対象=物」は「事実」から切り離して存在し得ない
例えば「猫」という対象ただそれだけが在るという状況はあり得ない
寝ていたり、起きていたり、黒かったり、白かったり、様々な「事実」が常に付随する
ウィトゲンシュタインによる世界の定義
1. 世界は成立していることがらの総体である
1-1. 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない
一般観念説が失敗したのは事実と切り離された個体の集まりから抽象を目指したから
事実の集まりから抽象を目指すべき