農家
農村では期待が芽生える。
農民の夢のめざすものは、けっして日々のパンや生活必需品ではなく、むしろ、天からマンナのように降ってくる富である。だから、この種の期待、この四月の祈りは施しを求める貧乏人のものではない。炉にくべる薪と煮るべきスープにはけっしてこと欠かない農民の誇りと自信というものが存在するのだ。彼とて不安になることはしばしばある。だが、いつでも眼のまえの生活よりも遠くを見ている。いつでも美しい未来を思い描いて、心底から絶望することはない。二日以上さきのことはなにも予想できないのだから。
農民が責任を負うのは自然である。自然の支配する現在と未来に対して、その活動が干渉できるすべてを投じて未来に介入する。
一方で農民以外が責任を負うのは他人である。我々は人間に対して責任を負い、その責任が重くなりすぎないように、また責任について時間や権利によって分解して管理可能な形に持ち込むことを目的に、経済の名のもと活動を続ける。この文脈を連綿と続ける以外の選択肢がない我々の生活は、お互いがお互いにかかる体重の増減をチェックしあう分業が基礎にあり、「期待」は芽生えない。
人間は波を崇拝しないことを学び取ったのだ。単に波を計算に入れたうえで、ためらわずに、できるかぎりそれを自分の目的のために用立てるのだ。必然は非情である。それを憎むことは馬鹿げているが、それを愛することもおなじように馬鹿げている。したがって、政治的なことがらのなかに、わたしの唯一ほんとうの主人である必然を見出すなら、わたしは敬意を払うことをまぬがれるわけだ。政治という大きくて恐ろしい仕組みのなかをわたしは用心しながら行動しようとはねがうが、それ崇拝したりはしない。それはいずれ劣らず敵なのだ。ここでのわたしの唯一の目的は、風や波にたいしてするように、服従しながら征服することである。それがわたしの市民としての憲章だ。わたしには人間には負うところがある、もちろん。しかし、必然にはなにも負うてはいない。